「重力01」作品合評会(5)


■鎌田哲哉「『ドストエフスキー・ノート』の諸問題(続)」

大杉 鎌田さんはドストエフスキーを論じる小林を論じているわけですが、ドストエフスキー作品を直接論じる気にはならなかったのですか。

鎌田 翻訳の全集は一応通読しています。でも、僕は小林秀雄の批評を論じたんだから。

大杉 じゃあ、ここにおけるドストエフスキーの位置というのはどういうものなのですか。この評論はドストエフスキーを論じる小林でなければいけなかったわけでしょう。たとえば、本居宣長を論じる小林ではいけなかったのですか。

鎌田 本居宣長を論じる時とドストエフスキーを論じる時で、小林秀雄の方向には明確な差異がある。本居宣長を論じる小林は、宣長の源氏論を基本的にアリストテレス的なカタルシスで考えている。それとは違う原理が小林秀雄のドストエフスキー論にはあって、それが僕は好きなんですよ。

大杉 それは、小林が書き方を変えざるを得ないような性質が、ドストエフスキーという対象に内在していたということですか。それとも小林自身の変化によって、本居とドストエフスキーとでは論じる方法が変わったのか。あるいはドストエフスキーを論じた方法で本居宣長を論じることも可能なのか。

鎌田 やはり対象の力が強いと思う。たとえば、小林自身がドストエフスキーのある部分を自分で変えている面 がある。『罪と罰』について、ドストエフスキー自身のエピローグとはまったく違うエピローグを最後に持ってくるとかね。その時の小林は、「引用=切断」の原理を原作に対してさえ果 敢にやっていた。それは、「ゴッホ」や「本居宣長」で「批評する気持ちは私の心を去った」とか言う時の、切断もコメントも含まない単なる引用とは全く違う。でも、僕はこの差異自体が対象の力だと思います。

大杉 でも結局『ドストエフスキー・ノートの諸問題』という評論において、ドストエフスキーという対象は鎌田さんが触れ得ない物自体になっていると思う。

鎌田 批評は批評の素材にはならないということですか。僕は逆に、すべての批評をその方向でやりたいんだけど。

大杉 いや、ならないとは言っていないよ。確かに鎌田さんの方法はいつも批評に対する批評ですから。

鎌田 柄谷行人は、批評の批評が僕達を貧血的にする、と言っている。どう思いますか。

大杉 そんなことはない。柄谷の批評がそもそも貧血的だったわけだから、柄谷に他人を批判する資格はないと思う。僕みたいに批評に対する批評があまりうまくできない立場から見ると、鎌田さんのようなスタンスは一体どこにあるのか、興味があるんですね。

鎌田 ただ、「ドストエフスキー・ノート」は本当に雑然としている。未完のノートが多く、小林秀雄自身も何をやっているか分からなくなっている。そういう意味では貧血性とは無縁です。

大杉 別に批評の批評が貧血だとは言っていませんよ。

鎌田 でも、他人に言われなくても、生活を省みて気になりますよ。

大杉 それは鎌田さんの個人的な問題ではなくて、むしろ現代日本における批評の問題と重なっている気がするんです。批評の批評がリアリティを持つという現実があるでしょう。

井土 鎌田さんは直接的な批評が得意ではないと自分で思っているのかもしれないけど、「カンナカムイの翼」についての批評は面 白かった。

大澤 鎌田さんが小説について論じたものは面 白いと思います。

大杉 映画論も面白いよ、「ユリイカ」論は読ませる。

鎌田 「カンナカムイの翼」には明確な構造がある。『百年の絶唱』にも構造があるし、青山真治の『ユリイカ』だってある水準では極めて明晰だから叩ける。そういう意味では批評の批評/作品の批評という区別 は僕にはない。さっきの話と矛盾するけど、「ドストエフスキー・ノート」だって、小林のテクストの中で一番混乱しているんだけど同時に最も明晰な構造があり、その選択には絶対的な自信を持っています。  
  ただ、他方で自分の生活のことを思うんです。僕は何にも興味がない。映画も見ない。この前書いたけど、本当に『刑事コロンボ』しか見ていない(笑)。誰でもそうかもしれないけど、放っておくと、狭いコップで分かり切ったことだけを繰り返してしまうと思う。だから井土さんや青山さんを論じろとか何とか、勇気が問われたり、偶然の思いつきで手作業をやらされる機会がいい経験です。柄谷批判は今後もやるから、逆に聞くべき所は彼からも誰からも聞きたい。向こうに他人の異論を聞く度量 がないから、それ自体が批判です。

中島 その柄谷行人との関係でいうと、C章「他者としてのキリスト」で柄谷さんが過去に書いた小林秀雄論を批判するようなかたちで引用していますが、他者としてのキリストを問題にする、あるいは田川建三の名を出してくるならば、なぜ『探究I』時点での柄谷さんとの直接対決をここで展開しなかったのですか。

鎌田 『探究I』からの引用がないのは、やはりアンフェアなのかな。

中島 この章を読んで真っ先に思い出すのは、やはり『探究I』なんですね。もちろんこれは小林秀雄論だから、小林のテクストと格闘する中でのキリストの他者性を……自己に侵入してくるかたちでの、受動性として感じ得る他者を抽出しているけど、非ユークリッド幾何とか他者としてのキリストに関しては、柄谷さんがすでに『探究I』で問題にしていたわけだから。

鎌田 僕が意固地になっているのは確かです。ただ、フォンビジン夫人宛て書簡の理解がそうだけど、柄谷さんがバフチン経由で書いていることはすでに小林のノートに出ている、つまり『探究I』自体が小林のノートとの関係で問われるべきではないか。

大杉 柄谷が小林秀雄をパクっている、ということですか(笑)。

鎌田 大雑把に言うとそうです(笑)。

大杉 鎌田さんの柄谷に対する態度は、その意味ではエディプス的ではないと思う。

鎌田 そうでもないよ。

大杉 いや、鎌田さんはむしろアンチ・エディプス的で、僕の方が表面 的な態度としてはエディプス的に見えるんじゃないかな。名前もよく出すからね。

鎌田 話を戻すと、正直言ってC章は自分でもいやだった。これは『探究I』とどう違うのか、何も新しいことを言っていない、と自分でも思っていた。少なくともB章で、意識というものの絶対性は自己意識の絶対性とは違う、と書いた時とは違っていた。

中島 そこでD章の必然性が出てくるのではないか。

鎌田 でもそのD章にしても、ほとんど秋山駿が言っている。ラスコーリニコフやムイシュキンだけでなく、イヴォルギンやレーベジェフに光を当てたところにドストエフスキーの、というより、小林秀雄の認識上の切断があった。秋山はそのことしかいっていない。もちろん、彼がそれを「自由」と呼ぶのは全くまちがっていると思うけど。

大澤 遠近法的倒錯の指摘、つまりある実感を遠近法の光源まで遡って相対化することは誰でも手つきでできると思うけど、その遡った光源自体をもさらに具体的に見ていく目が鎌田さんにはある。それはこのドストエフスキー論では出会いという見方ですね。あるいは山城さんとの関係で言えば、失語して反復するしかなくなったという山城さんに対して、その反復において小林が見た具体的な光景にまで鎌田さんは踏み込んでいく。
  やや細かく言えば、鎌田さんはある登場人物の一人に同一化して作品を語るような読み方を、まずバフチン的な基準で退けるわけですよね、それは構造的に語らされているのだと。鎌田さんの面 白いところは、語らされているのだ、という指摘だけではドストエフスキーに本気で向き合っていないのであって、そこから具体的に「出会いとしての歴史」という光源を掴み取るところですね。

鎌田 自分でも、「聖書熟読の経験」と「錬兵場の経験」を「出会い」と書いた部分には自信がある。でも、今回の原稿は昔の仕事を直したものでしょう。書き直す過程で、何と口真似ばかりで文章を書いているのだろう、早くやめたい、と感じることが多かったです。もちろん、『批評空間』に投稿した時は一生懸命だった。ただ、今回の書き直しは全体にすごく嫌で、体が腐りそうだった。だから、中島さんが言ったことが正しいと思います。

大澤 それは書き直す過程に出てきてしまった問題であって、ここで論じられていたのは、書くことはキルケゴール的な意味での伝達であり、そしてその都度現時点で歴史としての書くことが生じなければいけない、ということでしょう。これは大杉さんの批評におけるネーションとステートの「出会い」と似ているけれど、姿勢においてまったく違うと思う。

鎌田 いや、そうでもないです。こんなこと言っていいのか――自己流だけど、僕はアルチュセールがいわゆる68年革命の思想家では一番好きで、ある時期まで彼を完全に手本にして書いていました。『批評空間』に載った前編では、「『罪と罰』についてII」で小林がドストエフスキーを読解する方法を扱って、そこで抽象された方法を、「『白痴』についてII」における小林自身の読解に適用する、と書いたけど、これは、『資本論を読む』におけるアルチュセールの徴候的読解のまねです。それから、今回の「出会いとしての書くこと」の時は、彼の偶然性唯物論、特にマキャベリ論を念頭においていた。だから、自分が本当に「出会い」を書いたか、物まねに終っているのかがわからない。

大澤 ただね、唐突な例だけど、ある恋愛が終わってしまったとしますよね。そのときにそれについてくどくど悩んだり、自分が間違っていたのかなどと解釈を繰り返すんだけど、それに対して、出会いという偶然的だけど絶対的な事実、それだけは否定できないんだと。むしろそこに批評を書くことの根源があるんだと。これは比喩的な言い方ですけどね。とにかくそんな感触がこれを読んだときありました。

鎌田 うれしい。でも、かっこつけるわけじゃなく、それを自分の言葉でやったかどうか。昔の自分の文章がやはりいやです。特に、C章において気が弱くなってD章へと進んだのだとしたら、D章はその分さらに間違っていると思う――あまり卑屈になっても仕方ないけど。

 論文のはじめに分裂的共存ということが言われていますね。その内容は、297頁にある要約(A)(B)で書かれていることだと思うのですが、その(A)(B)で言われている分裂的共存がこの批評で説かれているかが疑問なんです。どういうことかというと、その後のB章とC章で、「練兵場の経験=死刑囚体験(死との出会い)」と「聖書熟読の経験(キリストとの出会い)」とをそれぞれ挙げていますが、この二つが項と項として出会うという話だったはずなのに、B章とC章を読んでみても、その二つが出会っていないんですよ。特にB章のはじめに「『出会い』は、二つの経験そのものの内容的な水準をも改変せずにはいない」(298頁)と書かれているだけに、なおさら疑問です。

鎌田 それは致命的だな(笑)。

 僕が見る限りだと、B章では「光の侵入」が「死の不可触性=他者性との出会い」へと、C章では「イエスがイエス以外のものになり得なかった事実性への『驚き』」が「時の消失」へと繋がっていく。ただそこには、B章とC章の出会いが内容をどう変えていったのかが、結局は書かれていないのではないか。

鎌田 僕の問題は、ドストエフスキーじゃなくて小林の種差を問うことです。「実朝」や「モーツアルト」の時期の小林は、死を内面 化したり主体化する方向で考えていた。でも敗戦後、自己批判も含めて、死というものについての捉え方が変わってしまった。死は決して内面 化できない、外から強いられるものであるがゆえに結果的に生かされることもある。そういう仕方で「死」がみえてきた。大雑把に言うと、死についての理解がハイデガー的なものからレヴィナス的なものへ、種別 的に変わったのではないですか。また、イエスに関しては、ヘーゲルやルナンが理解したイエスと、キルケゴールが理解したイエスとは全く違う、という主張において、「歴史と文学」や「無常といふこと」における想起の時間性とは別 個の時間性を見いだしていたと思います。

 そうではなくて、僕が言いたいのは項と項が出会うという問題は説かれていないのではないか、ということなんです。

中島 キリストはキリストの他者性を論じていて、死は死の他者性を論じていて、それがB章とC章とに分けられてしまっていて両者がきちんと「出会」っていない、ということでしょう。

 そうです。B章の最初にあげられた問題設定では2つの項は出会ったことによって変わるということだったはずなのに、それがどこにあるのかわからない。一方の項を他方の項に還元できないという意図はよく分かるのだけど、それを主張した上でなお出会いを強調するのであれば、出会いによって内容的な水準を改変するという部分が、僕は必要だったのではないかと思うんです。
 さらに加えると、その割にはD章では簡単に出会ってしまっているんですよ(笑)。

鎌田 「出会い」だけは説明できない。そういう前提で書いている。もし整然と説明できたら、それは出会いではなくなる。

 だからといって、出会ったのだ、というだけでは足りないでしょう。

鎌田 一方が他方によって変わる、ということを仮に書くとします。例えばB章からC章、あるいはC章からB章が生じるというふうに書いたら、それは今までの小林秀雄論に逆戻りしてしまう。一方の項を優越しなければならないわけだから。

 そういう書き方をとることなく、出会いについて書きたいというのが、鎌田さんの最初のモチーフだったはずです。

鎌田 そうです。聖書を熟読していても死刑囚体験にさらされなかった人もいれば、死刑囚体験にさらされていても聖書を熟読していない人もいる。しかしその両方が出会ったという前提で書いている。それは純粋な事実性で、何かからは決して析出できない。

 それは理解しているつもりです。むしろ問題は――

鎌田 その効果として何が生まれるのか。

 そうです。

大澤 だからその効果として、この文章が生まれているわけでしょう。鎌田さんは、どちらの項も切り捨てないで同時にそれらを論じるにはどうすればいいか、というときに、出会いとして論じるしかなかったのではないですか。そして、その出会いが書くことにおいてつねに現在的に反復されていくような書き方でなければならないのだ、ということでしょう。

鎌田 確かに両者は繋がっていない。ただ、B章とC章とは、一方が他方を基底とするものであったり目的とするものであったりしてはならない。それは示せていると思う。

 先ほど鎌田さんからアルチュセールの話が出ましたが、「出会い」という概念がアルチュセールから来ていることは読んでいてすぐに分かりました。だからこそ不満が残るんです。例えば「出会いの唯物論の地下水脈」では、資本主義の発生が資本と労働力の偶然の「出会い」として説かれていますが、この二者についても一方から他方が出てきたものではなくて、まさに「出会い」としか言いようがない。しかし両者が「出会いました」で終わってしまったら資本主義の分析として決定的に不充分だと思うんです。「出会い」それ自体は資本主義の前史にすぎない。僕は鎌田さんが資本主義の分析と同じようなことをやろうとしているのではないかと思ったんです。つまり、出会いによって互いの内容的な水準をどう改変していくのか、という分析です。

鎌田 どう書けばよかったのか。もう一度確認すると、僕はドストエフスキーじゃなくて、小林の認識の改変を示したかったんですね。今回の書き方ではだめなのか。B章やC章を先に持ってきておいて、決定的な証拠はないが、小林の認識の種差を生み出す必要条件としてA章で言っている二つの経験それ自体の「出会い」があった、可能性としてそれしか考えられない。――そういう書き方にすれば良かったのかな。

 それはよくわからないけれども。

鎌田 すごく気になるけど、僕にもわからない。最後は勘でやっています。

大杉 この出会いは、機会均等ではなくて特権的な経験としてあるわけですか。

鎌田 いや、最後にD章があるから機会均等なんだよ。でもさ、人間って自分のことを話すと、何でこんなにしどろもどろになると思う? 結局は全部ダメってことだろ(一同爆笑)。

(つづく)