大澤信亮/「重力01」感想


※「重力01」作品合評会の討議資料

市川真人「水道橋革命計画(序)」

内容についての感想は書きません。序だけの作品を論じることはできない。ここでは「水道橋革命計画」が書き続けられることを前提に、内容とはべつに現時点で生じている問題を書きます。まず言語感覚が乱れている。たとえば一行目の「あなたは明日から、この瓶と一緒に歩いてもらいます」という表現ですが、正確には「あなたには明日から」と書くべきです(個人感覚的にはaの母音が連続することの方が不快ですが、それはこのさいどうでもいいです)。この種の粗さは作品中に無数にあります。それから比喩がまずい。「フランス語でも『大学』は『universite』だと知ってちょっと身近に感じる大学生よろしく」。「太り気味の猫ほどの大きさの犬」。「握った拳を腰骨の脇に添えたスキーのジャンパーのような姿勢で背伸びするように」。「どこかに連れられてしまいそうな赤い靴先」。まったくイメージに絡みません。そして中途半端な視覚への配慮(カメラワークを模した状況説明ラベル、アルファベット、犬の絵、文字の重組)。とくに、重組に関しては「テンノウ」を導入しつつ、それを曖昧に誤魔化す装置として機能している。語感や比喩や視覚への配慮についてはこれ以上言いません。でも最後の点は重要です。つまり、「テンノウ」と「革命計画」に何らかの関係があるとして、それは腰の据わった態度で書かれるのか。曖昧にほのめかせられるだけなのか。これはこの作品の核に関係すると思う。実行を前提にしない計画は無意味です。逆に言えば、実行のための計画であれば、語感云々など瑣末なことかもしれません。いずれにせよ作品が完結したときにもう一度ちゃんと論じます。



井土紀州+吉岡文平「ブルーギル」

最初に作品とはべつに根本的な疑問を書きます。つまり「シナリオ」を雑誌に載せるということの意味です。シナリオをテクストとして提出することはもちろん可能です。事実僕は「ブルーギル」を面白く読みました。でもやはり映画として観たかった。何より正確な感想が言えません。これは可能性の保存という致命的な弱点だと思う。僕の井土さんへの批判は、どうして01に映像と音を導入できなかったのか、という点です。だから02ではどうにかして、CD−Rなどで「レフトアローン」の短縮バージョンを付ける、等の手段を模索してほしいです。いくらお金がかかるのかは知りません。でも僕はそのためだったら、自分の小説が不恰好な文字組になっても構いません。

それでは作品の感想に移ります。といっても「ブルーギル」はシナリオなので、ここでは「百年の絶唱」と前者を重ねつつ、感じたことを書きます。井土さんの描く物語には、ある呪われた物質(前者では拳銃、後者ではレコード)が、荒廃しつつある心を暴力の到来とともに開く、という構造があると思います。この点から観れば、「百年の絶唱」のほうが「ブルーギル」よりも(シナリオを読むかぎり)、物質への執着が強く描かれていたと思います。そこには「ブルーギル」の拳銃よりも、「百年の絶唱」のレコードのほうが、音があるぶん、より映画的に描けるという条件が作用していると思います。

だがその音の使い方に僕は問題があったと思う。「百年の絶唱」の主人公にレコードの呪いが染み込むのは、彼が恋人やかつて通っていた小学校などの、安住できる空間から引き裂かれているからです。彼は残されたレコードに何を聴いていたのか。それはレトロなものへの郷愁ではない。彼が聴いているのはメロディや歌詞ではなく、そこに否応なく含まれている「ノイズ」だったはずです。作品の終盤で、レトロミュージックがクラシックに変わり、物語は交響と合唱に浄化されて幕を閉じる。だけど僕が思うのは、むしろ彼はより一層のノイズに塗れ、より汚くなることでしか本当の「再生」はできなかったのではないか、ということです。そうでないと、前半での元恋人への執着に、説得力がなくなってしまう。あの執拗な描写には現実の感触がある。だからこそ、それを終盤のようなかたちで解消してしまったことに、疑問が残ったわけです。唱が絶えても響きは残る。そのノイズが人を生かしめるのではないか。僕はそう感じています。

「ブルーギル」について。物語は「百年の絶唱」よりも練り上げられている。他方シナリオを読むかぎり、後者にあったような「音」への執着は、あまり感じられません。それが欠点とは言いません。なぜなら「ブルーギル」には水という物質へのこだわりがあるからです。バタやんにとって水は家族を規定するものです。母親の水商売。父親の釣り。水商売に入ったナツコ。魚に目を輝かせるアイ。作品に漂う、水とブルーギルへの嫌悪は、それが生の条件であることに原因している。だからこの作品は、どこまで水にこだわった映像を撮れるかが、鍵になると思う。とくに101から103のシーンは重要なので、もう少しシナリオの時点で書き込む必要があると感じました。でも最初にも述べたように、こういう細かな感想自体が、作品によって一蹴されるかもしれない。そう考えると感想を持ちにくいです。これはやはり作品にとって弱点以外の何物でもないと僕は思います。



大杉重男「森有礼の弔鐘」

僕は「森有礼の弔鐘」に数個の疑問があります。ほとんどがこの論文に限定したものですが、一つだけはこの論文を越えた、書くことそのものについての疑問です。反論しやすいように、以下に番号を振って列挙します。

1 語呂合わせの乱用が説明に曖昧さを齎す。これは幽霊の除去と矛盾しないですか。たとえば大杉さんは、この論文の最後でそのような漱石の傾向を批判しているでしょう。
2 有礼の意見が日本国の核心におかれていたら、太平洋戦争の責任は明確に天皇に帰せたという発想は、戦争の責任を誰かに取らせるという、最悪の無責任ではないか。
3 大杉さんが有礼を肯定しているのか、否定しているのかがわからない。おそらく有礼が主観的には天皇主義にもかかわらず、現実には反天皇だったというのが、この論文のポイントだと思いますが、その反天皇の帰結が2だとしたら、主張として脆弱だと思う。それは有礼の国家主義的側面を強調することにしかならない。大杉さんが「日本語に代わる言語」を考えると言うとき、そこには有礼的国家主義への接近がないでしょうか。「必要なのは日本語あるいは近代日本文学を「廃棄」するのではなく「揚棄」することである」という表現には、国家を揚棄するという問題が消えていると思いました。
4 話として出来すぎている気がする。これが根本的な疑問です。ネイションとステイトの結婚という出来事が事実としてあった以上、その枠組みを利用すれば物語を作ることはできます。そもそも国家主義と天皇主義はべつのものだから、どちらかが極端化すれば関係が崩れるのは自明です。だが問題はそうした発想自体にあるのではないか。つまりそこから書く以上、記述が問題の圏域を越えないと思うのです。僕はこれが3を用意したと思う。対象の感触から出発しないで、既成の問題から出発したことが、整然とした文章と引き換えに、対象と自らの関係を問う機会を奪ったのではないかと。

以上です。僕は「アンチ漱石」をほとんど読んでいないので、固有名に関する大杉さんのこだわりをつかみきれていません。これから読みます。



可能涼介「不可触高原」

この作品はつねに核心を避け続ける。だがそれこそが「不可触高原」の核心なのだと思います。たとえばI部の男女は、目の前に反応する他者がいるときは、きわめて冷淡なくせに、いざその相手が沈黙すると、途端に饒舌になって相手を求めだす。またII部では、肝心なことを話せない男女が、まさにそれを話さないがために、延々と博学的な知識を開陳し続ける。そしてIII部になると、男は仮面に、女は黒髪になって、もはや男と女という存在自体が歴史上の様々な名とともに解体される光景が描かれる(「女は存在しない。ゆえに男も存在しない」)。男女の関係にかぎらず、II部で訪れる地名や情報の選び方にも、触れそうで触れない感覚は現れている。僕は率直に言って、不可触高原とは高天原で、この作品では触れえない天つ神(天皇の祖としての)と触れ合えない男女の関係が、重ねて描かれているように思いました。人が触れることができるのは、せいぜい仮面や髪や文字だけであり、魂それ自体に触れることなどできないのだと。しかしここには微差があるはずです。それは「触れられない」と「触れたくない」の違いです。僕は前者の光景は否定しない。しかしそれは「触れようとする」光景を繰り返し描くことのなかにしか生じえないと思う。この作品は本当に「触れられない」の感覚から書かれているのか。言い換えるなら「触れたい」という感覚から書かれているのか。登場人物たちの軽薄なセリフには、はじめから他人などには興味がなく、ただ「触れたくない」という感覚を肯定したい欲求が現れている。それが悪いとは思わない。人には様々な様態があるから。ただ惨めに思うばかりです。なんにしても、触れたい僕には、まったく「不可触」高原でした。



鎌田哲哉「ドストエフスキー・ノートの諸問題(続)・その他」

率直に言って「ドストエフスキー・ノートの諸問題(続)」と「準備のためのノート」はすごい。ただ前者の結末部で、固有名に対する無名性の抵抗という問題が入るところは、問題構成が論の緊張を殺いでいると思う。たとえば、固有名(ムイシュキン)に対する無名性(イポリット)の抵抗という言い方は、イポリットという固有名を消去している。固有名と無名が争うのではなく、有名な固有名と無名な固有名が争う、これが現実ではないですか。「準備のためのノート」。「生きることをこれから再び始めるために」「書くことは書くことであり、生きることは生きることである」と書き、にもかかわらずそれらを同時に問わせる「生きること」の感触。この文章が書かれてから十年近くがたちますが、鎌田さんは今でも、この論文の感触に十分忠実に生きていると感じます。

「山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」について」。山城むつみの論文が、「ドストエフスキー・ノート」の認識内容を切り捨てているという指摘は、同感です。ただそれを「創作」と「批評」という認識の違いから説明するのは間違っていると思う。山城さんの論文のポイントは、本気で対象を論じようとすれば、読み手は失語に追い込まれるほかなくなり、だがそのときこそぎりぎりの創作=批評が現れる、というところだと思います。鎌田さんはこの読み方をさらに徹底させて、そのぎりぎりの光景が具体的にいかなるものなのか、を示したのだと思う。こう考えると、山城論文の問題は認識の欠如にあるのではなく、たんに不徹底さにあることになる。その不徹底を用意したのが「創作」という認識なのだ、と言うかもしれないが、ここには盲点がある。というのは、むしろ鎌田さんの論文こそが、より具体的に創作について書いているからです。たとえば、「キリストという他者と死という他者の出会い」を描くというのは、創作原理にこそなれ批評原理にはなりえない。なぜなら、これが批評原理だとしたら、批評家は常に自らが望む光景を対象に求め続けるほかなくなるからです。だが山城さんの議論の核心は、このような対象へのあり方の批判でしょう。それを承知していながら、「二つのテーゼを出会わせることが彼(小林)の読解」と書くとき、鎌田さんに不在なのは「創作」ではなくむしろ「批評」だと思います。でも僕が本当に言いたいのは、こうした指摘ではなく、「批評(家)」か「創作(家)」かという問いをやめるべきだということです。この問いが隠す光景があるから。たしかに認識レベルから批判するのがイデオロギー批判の原則ですが、山城さんにあるのは「中略のイデオロギー」ではなく、「抽象という問題」だと思う(僕は彼の「保田論」その他にもこの傾向を認めます)。それは「イデオロギー」ではないから原則ではとらえきれない。僕はこの違いにこだわりたい。そのうえであり得べき態度を探していこうと思います。



西部忠「社会企業家オーウェン」

オーウェンを社会企業家として位置づける試みは成功しています。市場経済が個人主義(自由意志と自己責任)と不可分であるとすれば、オーウェンは個人という概念自体を「性格形成原理」によって批判し、それによって経済問題は純粋独立的に扱えないこと、それが必然的に「社会」の位相を孕むことを示した。ゆえに市場経済への抵抗は経済レベルだけでは完遂しえない。「言い換えれば、『自由』と『競争』を原理とするはずの市場経済が『強制』を内包し『協同』を隠していることを見いだした」わけです。もちろん西部さんの議論はもっと精緻ですが、僕はこの感覚が重要だと思います。それを認めたうえで「社会企業家オーウェン」への根本的な疑問を書きます。

オーウェンは市場経済への本質的な抵抗者だったのでしょうか。「ニュー・ラナーク」の成功と「ニュー・ハーモニー」の失敗は、結論として、工業生産および外部市場との交易関係の有無に起因する。ニュー・ラナークの核には、当時の先端テクノロジーの綿工業があった。ゆえにそれは「製造所コミュニティ」として一定の成功を得た。だが、この事実はむしろ、ニュー・ラナークが資本制的搾取の上に成立していたことを意味しませんか。事実の誤認があれば訂正しますが、イギリスの綿工業の発展は、インドなどへの過当な綿製品の輸出、およびそれに伴うインド綿花の第一次産業化によって、つまり他国を帝国主義的に収奪することで支えられていたのではないか。オーウェンはそれに感づいていたからこそ、ニュー・ハーモニーの実現を急いだのではないか。西部さんはマルクスのオーウェン評価に依拠するあまり、時代の制約のためにマルクスが十分に考察しえなかった帝国主義の問題を、見落としているように思えます。つまりオーウェンの成功から書くのではなく、むしろ失敗から書くべきではなかったのか。とはいえ問題の所在が工業にあるという指摘は重要です。僕が思うのは、一国資本主義型の工業(産業資本)とはべつの、かといって商業資本でもない、いわばそれらを同時に揚棄するような新しい生産形態はありないのか、ということです。それは経済システムの改良だけでは実現できないでしょう。オーウェン的な意味での「企業」が必要になると思います。



松本圭二「アストロノート」

僕は「アストロノート」の意図がつかめませんでした。作中にある無数の「ぼやき」がなぜ書かれなくてはいけなかったのか。この作品に何らかの認識があるのは確かです。でもそれは「恋愛詩集は歳取ったら書けない」とか、「詩は<無能>と<万能>の極端な振幅のなかにある」とか、「詩を書いていることがはずかしい」、「思考に追い付く記述なし」、「インターネットのおしゃべりの集積と戦うためにこれを書いている」、「こんなん詩とちゃうよ」、「汚らしい国だ日本は」、「日本語は全部嘘だ」「原稿料」、その他無数の認識=ぼやきではなくて、むしろそれらの発言を可能にしている「認識」です。そして僕が「アストロノート」に感じる違和感は、こちらの「認識」に関わっている。

問題は「長さ」だと思います。長いことが問題なのではなくて、長さを可能にしている認識が問題なのです。率直に書きます。僕は文章は可能なかぎり短くあるべきだと思っている。なぜか。言葉と発話がそれ自体暴力だからです。この二つは別のものです。言葉が人を規定していく暴力と、発話の非対称性が孕む暴力と。だから僕はどうしても言いたいこと以外は口にしたくない。たとえ存在自体が暴力だったとしても、さらなる暴力に加担する以上は、何らかの信念が必要だと思っています。「アストロノート」にあった信念は何ですか。そこに「青猫以後」の赤裸々な緊張はありましたか。僕は「青猫以後」(とくに冒頭)はすごいと思うし、松本さんの書くエッセイも好きです。「ミスター・フリーダム」も、山本陽子の書評も、「チビクロ」も。そこには、詩的なおしゃべりを続けるだけの、すでに終わっている人たちとは違う、新しさをもたらす人間の息吹がある。だけど多くの詩に対してはなぜかそういう気になれない。僕が間違っているのかもしれないが、それを自覚するためにも、エッセイと詩において感覚のズレが生じる理由を考えてみます。

それは松本さんの「詩人」および「現代詩」の規定にあるのではないか。つまり大量の負債を抱えながらも、試合を終わらすことのできない「ロング・リリイフ」としての戦後詩人、という認識に(「戦意の喪失を引き継ぐために」「ビジョンの敗北を引き受けて」「敗戦国の詩人として引き受けよう」)。僕はこの認識がどれほど正しいのか知りません。だが必要なのは、このポジションに固執することではなく、この状況を何とか終わらせ、そうすることで新しく生き直すことではないですか。松本さんが「すでに繰り返された」と言い放つとき、それは本当に松本さんのなかで「繰り返された」のでしょうか。「チビクロ」はいつ「カーハ」になるのか。松本さんが胎内図を見たときでも、名前を付けたときでもない。彼女自身が安住する状態を終わらせ(終わらせられ)、苦しみとともに、外気に触れる一回目を経験するときでしょう。そういう詩を望みます。書けると思います。