東京の大学に合格すると、私はいよいよ小説家となるべく勇んで上京した。小説家になるには、とにかく小説を書かねばならない。そういうわけで私は、授業にも出ず、ひたすらアパートの一室に隠っていた。文学部がしている授業ごときから学ぶべきものなど何一つ無いと、勝手に思い上がっていたのだった。時間はたっぷりあった。誰にも邪魔されない時間をたっぷり確保できれば、なんとなく小説が書けるような気がしていた。でも無理なものはやっぱり無理だ。書けない。続かない。悶々とするだけ。結局、自堕落な「寝たきり」のような生活(いまで言うヒキコモリか)になってしまって、大家のばあさんから気味悪がられていた。隣の部屋の学生からは明らかに軽蔑されていた。そんな気がいつもしていた。小説が書けなくなったのは純文学を読んだからだと先に書いたが、それでも私は、書くなら純文学しかないと心に決めていた。でもその心も、しだいにぐらついてきた。もう純文学は書けそうにないので、片岡義男まで戻ろうと思った。片岡義男であればなんとか手が届くだろう、というのは、自意識的には了解済みだったのだ。呆れるしかない。久しぶりに読んでみた片岡義男は、純文学よりはるかに無理だと思われた。アパートで「寝たきり」になっているような男には、まったく無縁の世界が書かれていたからだ。そのうち絶望的に小説が読めなくなっていった。読む気がなくなってしまった。だらだらしているくせに、無性に苛立っていた。時間は腐るほどあるのに、なんか切迫していた。書けない、ということは何もしていないことと同じだ。普通の人間はみんな何かをしている。何もしていない私は、そのうち「世間様」から糾弾されるだろう。父親のような秘密警察に逮捕されるに違いない。それが怖かった。
小説はしょせん優雅な読み物だ、そんなものはかったるくて相手にしていられない……。私の悶々は、布団にくるまったまま、卑屈になるばかりだった。なんだか凶暴な精神が渦巻いていたようだ。そして何を読んでいたかというと、現代詩だ。もう現代詩しかなかった。東京には古本屋がいっぱいあって、高校生のころに情報収集していた有名詩人たちの、そのオリジナルの詩集が意外なほど安い値段で売られていた。これは買いだった。無名詩人の詩集は、もっと安い値段で売られていた。ペラペラ捲ってみると、悪くない、なんか良さそうだ、これも買いである。そして一番素晴らしかったのは、「現代詩手帖」や「ユリイカ」のバックナンバーが百円とか三百円で手に入ったことだ。私はそういうのを買って来て、部屋でごろごろ、何かを腐らせながら読んでいた。絶対、何かが腐っているような感じがしていた。あの時何が腐ったのか、今でもわからないままだ。私はそれでも現代詩を書きたいとは思わなかった。いや本当は書いてみたいと欲望していたのかも知れない。でも詩は、駄目だ、恥ずかしくて書けない。心のなかがぐちゃぐちゃになっていた。小説をいくら遠ざけても、強い憧れだけは消えなかった。書きたいのはあくまで小説、それも今まで誰も書いたことのないようなとんでもない傑作小説であって、間違っても詩なんかじゃない。そう考えていたし、どう考えても、そう考えるしかなかった。私がこれから書くもの、書いて大成功すべきものが、詩であるはずがない、ところが……。
アホな話だ。私がすでに書いてしまったもの、さんざん書き散らした、小説にするつもりで書き出した散文の断片や、小説の構想を箇条書きにしたノートのようなもの、撮られるはずもない映画のシノプシス、夢の覚え書き、継続性のない日記のようなもの、宛先不明の手紙、遺書の下書きのようなもの、脅迫文、うわ言のような書きなぐり、それら屑のような書き物の膨大な残骸は、みんな現代詩に似ていた。むろん、ただ似ていたにすぎない。私はこの山にもあの山にも、本当は一度も足を踏み入れることはできなかった。隠れ里なんか知らない。山の方から空き缶やコンビニの袋といっしょに押し流されて、気が付けば河口の、テトラポットの隙間のような澱みのなかで、じゅるじゅるした畳の部屋で、どうしようもなく漂っていただけなのだ。そしてもう、どんな山も見えなくなってしまった。何もない。そう思った時、途方もない徒労感とともに、ここからが本当の勝負なんだという気がした。