鎌田哲哉/NAM会員へのメールA(『Q-NAM問題資料集』より)


*資料番号は暫定的なものである。注釈や明らかな誤記の訂正は[ ]で表示している。

[S-19]鎌田哲哉からQ管理運営委員会へ
Sent:Monday, July 25, 2005 9:23 AM
Subject:[q-project 847] 石黒さんへ

鎌田です。

次に[この前のメールは省略]石黒さんのメール838に答えます。石黒さんは、「下記鎌田さんの論旨からは若干ずれてしまいますが、重要かもしれないので応答しておきます。/以前僕が準備したパンフのドラフトが、あたかも意図的にNAMのことを隠しているように書かれていますが」と書いていますが、それは全く違います。言ってもいない論拠を他人に押し付けて、その上で相手を批判するのはやめて下さい。全く逆に、私は石黒さんが「意図的に」ではなく、「無意識に」「無邪気に」「善意に」あの草稿でQ-NAM問題に言及しなかった、と思っています。正確には、悪気や問題意識が欠如しているからかえって有害で、こういう姿勢をこれ以上Qの運営に持ち込むべきではない、と考えているのです。

たとえば、石黒さんは「あれはNY州の地域通貨会議で配布することを目的に準備したものです。想定読者等考慮して、かつ数枚におさめる必要性から言及するポイントを絞り込んでいます。」と言いますが、こうした言動は言い訳としても通じません。「数枚におさめる」どころか、宮地さんはわずか表裏一枚のチラシでQ-NAM問題に言及していますし、下記に示すように二行の工夫でも書く気なら何とかなるのです。「NY州の地域通貨会議で配布する」云々というのも問題で、だからこそQの普及に伴い生じた現実の困難を忌憚なくぶつけ合う、それを通じて地域通貨が持続的に拡大する道を議論し学んでゆくことも可能だったでしょう。地域通貨に関心を持つ外国人が多いから書かないでいい、と考えているなら、そういう態度は相手をまともな他者として扱っていないのです(崇拝?かその裏返しとしての馬鹿にした態度かはともかく)。確か過去ログでは、宮地さんや穂積さんが(Q‐NAM問題に直接言及していないとしても)実情とかけ離れた制度設計だけを声高に書くことの問題点をやんわり指摘していたはずですが、石黒さんはほとんどそれらに耳を傾けていなかったはずです。

しかし決定的なのは、あなたがメール009で「(日本語の)パンフの話も出ていましたが、これをもとに叩いていってはどうでしょうか。」と偉そうに書いていることです。もし838の主張が事実なら、せめて009でも、「これはNY州の地域通貨会議で配布する限定的なものでしかなく日本語版では使えない、特にQの歴史や現状については誰か他の方に執筆をお願いしたい」とでも書くべきではありませんか。その程度の自己限定も望んではいけないのでしょうか。といってもまだわからないと思うので、端的に該当個所を示します。

A)石黒さんの原文
Q has 74 individual members and 3 group members as of June 2004. Membership
and trade amount grew significantly in 2002 but has been somewhat stagnant
since then.

→B)西部さんの示唆を受けての改訂版
Q has 74 individual members and 3 group members as of June 2004. Membership
and trade amount grew significantly in 2002. As of January 2003, we had 370
individual members as well as 14 group members, but the membership has gone
down since then due to internal conflicts among members.

この二つは決定的に違います。改訂版はNAMの名前が出てこないだけで事態を正直に書いている一方、あなたの原文は書いた時点でさえ明白に虚偽です(stagnant「停滞している」ではなくgone down 「減少している」と書くべきです)。こんな文章が、日本語であれ海外向けであれ何かの「もと」や「叩き台」になると思いますか。「数枚」しかないからというのは下らない言い訳で、たった「二行」の工夫で歴史の伝達はこれだけの開きを生むのです。胸に手を当てて考えた時、石黒さんはAB二つのうちどちらの文章の記載されているパンフを選びますか。もし西部さんの介入以前に石黒さんが最初から文章Bを書けたなら、その方がQや「NY州の地域通貨会議」ばかりか、石黒さん自身にとってもはるかによかったのではないですか。私はあなたが僅かにこの二行を工夫しなかった事実を問題にしているだけで、その感覚が「意図的」か無意識かはどうでもいいのです。問題をすりかえないで下さい。

しかし折角なのでもう少し書きます。私には、石黒さんのパンフ執筆時の感覚がQ-hiveでの様々な言動につながっているように思えます。たとえば、あなたはメール321で「Q管の大方の方々は元気がありませんよね。僕もとくに元気というわけではありませんけど、皆さん個人的にもいろいろあるだろうし、長くやっていると疲れているということもあります。そんなとき休職っていうのも有効だと思いますよ。」と書かれている。しかし、Qには不当なまでに運営責任を負わされてきた委員(西部さんや宮地さん)もいて、これだけで文章が終られるのは困るのです。Qの制度設計は一生懸命書くがQ-NAM問題を書かないですますのと同じ感覚で、休職したくてもできなかった人達が存在する事実への感覚が石黒さんからは消えているのです。

もちろん、発言がこの程度の感想ですめば何の問題もありません。そればかりか石黒さんのこうした感覚が通る背景には、「一度就任すると半永久的に権限の行使が可能で、他方で気ままに休職や復帰もできる」というQ-hiveの制度上の問題があります。復職するにしてもただ過去ログを読むだけではなく、休職期間中の公式見解や契約更新等の重要な決定については全てを承認しそれらを尊重した上で復帰してもらう。そういう規定を設けずただ運営を活発化する目的で休職や復職を奨励する場合、歴史や他者への意識を欠いた文章や発言がQ-hiveでは今後も頻発するでしょう。

しかし、だからと言って石黒さん個人の判断に生じている問題を指摘しないわけにも行きません。たとえばメール319を読む限り、石黒さんが[は]パスワードの問題などを通じてQ-hiveの運営にうんざりしてしまったようです。731で、「意見形成には参加できないと思います。データの方はできると思います。」という選択をした背景にはそれがあると思います。しかし、もしそうならそうで、意思形成については何があっても他人に委任する、という自己限定を貫いてほしいのです。石黒さんが参画しなくても、意思決定を論じている委員の間では、(今回の私の発言のように)石黒さん自身の言動を他の委員との対比で検討材料にする場合がありえます。その時に、自分が批判されたからといって即座に神経的に反発し、ついでに前言を翻して「話をもとにもどせば、これまでに掲載された記事を残すことにもちろん異存はありません。その方がいいでしょう。」と意思決定にも発言してしまうのは、非常に滑稽なことだと思います。そんなことをする位なら、他のテーマについても地道に定期的に発言すべきではないですか。このMLでの私の義務は通読と傍聴ですが、石黒さんは何より決定権を持つ管理運営委員です。パスワード問題や穂積さんと宮地さんのやり取りに石黒さんは嫌気がさしているかもしれないが(特にパスワードの件でそうなるのは正当だと思いますが)、石黒さん自身の言動が他人を白けさせている可能性も十分にあるのです。私も含め、この点では誰も特権的な立場にはいません。それがQ-hiveの実情だと思います。

私が言いたいのは、別にQ-hiveを辞任してほしい、ということではありません。全く逆です。石黒さん、新システムが再開し、折角久しぶりに投稿されたのですから、これを機会にもう一度Q-hiveの運営に、しかし今度は意思決定も含めて積極的に関与されてはいかがですか。私のようなうるさい人間がいる所で発言するのはもういやですか。これは皆さんそうでしょう。ただ私としては、運営に際してお願いしたいことは一つしかありません。それは、石黒さんが主として制度設計やデータ解析に関心があるにせよ、上記ABの文章の二行の差異、あるいは様々な問題で別個に生じる「二行」の差異について、それらを同時に尊重してほしい、ということです。ご自分で草稿を書きだす時点で、できるだけ文章Bを書くような自己限定や自己批評に努めてほしい、ということです。監査は消極的な業務にすぎず、そうしてもらえれば私は余計な口を一切聞き[利き]ません。

以上です。最後に、私は一応メールだけは読んでいて、石黒さんの草稿の問題点もごく早期に気づいていました。ただ、石黒さんが毎日徹夜でこの草稿を書いたことやQ活性化のために復帰してもらったことを考え、他の管理運営委員とも相談の上、直接この場で発言するのを控えていたのです。しかし、それは結局私自身が石黒さんをいわば「お客さん」扱いし、その人格とまともに向き合わなかった事実を示すものでしかありませんでした。私はやはりリアルタイムで発言すべきであり、それができなかった点については心からおわびします(今回もまだ表現に遠慮がありますが、内容的にはある程度本音を書いています)。大変申し訳ありません。

(Q-hive全体にもう一通書きますが、それは明日にします。今日はこれで)


[S-20]鎌田哲哉からQ管理運営委員会へ
Sent:Tuesday, July 26, 2005 6:12 AM
Subject:[q-project 856] Q-hiveの皆さんへ

鎌田です。

以上、田中さんと石黒さん宛の返事をようやく書きました。後半(石黒さんへのメール)は眠気に負けて助詞のまちがい等が大変多く、非常に恥しいですがいちいち訂正はしません。ただ最後にQ-hiveの業務、というより、特に情報公開/広報業務に今後も再三影響を及ぼすであろうQ-hiveの精神的な雰囲気の問題に言及します。


田中さんは別として、石黒さんへのメールに類した内容を私は初めて書いたわけではありません。たとえば松原さんとも同じ議論をしています。具体的には、昨年8月に松原さんが「QのHPに今後批判文章は載せるな、Q監査委員会のHPか自分のHPでやってくれ、リンクははる」と提案し、私がそれを断った、というものです(注――この時点では、監査委員会のHPを独立(排除?)しようとする動きがありましたが、私はそれならQ‐hiveのHPも公平にQのHPから独立させてくれ、と言いました。現在のページ構成に全く問題はありません)。パンフかHPか、という区別を除けば、歴史を抹消する姿勢において石黒さんと松原さんの姿勢は似ています。この流れはなぜ繰り返し生じるのでしょうか。もちろん、我々も結局日本人であるという一般的な理由はあり、「いい加減に過去は忘れて前向きな未来(ないし制度設計)だけを語りたい」という気持もわかるのですが、私が言うのは、その気持だけが今のQ-hiveで絶対化されやすい理由は何か、という特殊具体的な問題です。

簡単に言えば、それはQ‐NAM問題についての責任感覚が薄いからだ、と私は思います。具体的に、京都オフライン会議以後もQ-hiveにとどまったNAM会員の方達は、柄谷さんから強い辞任要求の私信をもらったと聞いています。オフ会ではそれが脅迫に近かった、と言っていた方もいました。そのために、多少の差異はあっても自分は被害者である(あるいは何も悪いことはしていない)という感覚をもつ委員の方が多いと思うのです。実際、自分が純粋な被害者であれば、過去について言及するか否かは完全にその当人に委ねられます。何も悪くないんだから、もうこの件は触れずに楽しいことだけを考えたい、という気持ちになるのも自然なことです。

しかし以上の感覚は決して正しくありません。それは外部の他者を見ない所に生じる議論です。(昨年のQ監査委員募集時の議論用ML宛の投稿[本資料集[S-18]参照]を含め何度も言いましたが)Qには同時に非NAMのQ会員がいました。皆さんがNAM内部でいかに被害者だったとしても、非NAMのQ会員に対しても運営上の権限と義務を併せ持つ管理運営委員であり、しかしこの義務を全く果さなかった事実は消せません。柄谷さんのメールがどうあれ、一連の大量退任や返金騒動の煽動時に運営を放棄して全てを黙認し静観していたことに変りはないのです。厳しい言い方ですが、どんなに自己を美化したくても、皆さんはこの点で自分自身の手の汚れを回避できません。たとえ「いい加減に過去は忘れて前向きな未来(制度設計)だけを語りたい」「自分のやりたいことだけをやりたい」と思っても、皆さんが全てをそれですましてはならない理由はこれです。歴史記述について、パンフやHP上で最低限の義務を果さなければならない理由は、こうした事実にあるのです。将来、Q-hiveの委員がNAMと無関係な人達だけになり、彼らの合意でQのHPやパンフレットからQ-NAM問題の記述がなくなることはありえます。しかしそれは彼らが決めることであり、皆さんが決めることではありません。


私はこのことを何度も言いたくありません。当時の状況が国家権力や警察の介入を恐れるような状況ではなかったこと、「辛かった」と言う前に自分自身がもっと辛かった人の立場を思いやり、Q-hive上でどんどん発言すべきだったことも再三書きました。ただ、パンフやHPのような直接運営に関することでなくても、Q-hiveでの様々な言動に同じ他者感覚の不在をどうしても感じるのです。突然引き合いに出して悪いですが、三木さんはメール771で次のように書いています。

「話は変わりますが、昨日横浜駅の大きな本屋に行ったらNAM原理が多数平積みされていました。手にとって見ている人もいました。さすがに再版されたものではなく在庫を一掃しようとしているようですが、何か裏で意図があるものと感じました。入会募集などもそのままかかれており、あまりの不誠実さに激しい怒りを覚えました。在庫は廃棄するべきだし、少なくとも販売するのであればNAMが崩壊した現在の状況を追記するべきでしょう。」

三木さんだけでなく、松原さんや石黒さんも同じ気持かもしれません。しかし三木さんはここで、自分自身がNAM会員だった事実をどの程度意識していますか。NAM原理の平積みに「激しい怒り」を感じているなら、一人でなくても数名の元会員と共同して太田出版に廃棄ないし追記を付するよう要求することもできます。うまくいくかどうかはともかく、ご自身がNAM会員であった以上、非NAMの「手にとって見ている人」への責任を果すにはそれしかありません。何も行動をおこさず激しい怒りにただ身を委ねる場合、感覚は主体的なものでなく主情的なものに後退し、外部の読者への責任を自分自身が分有している、という認識が消滅しています。「手にとって見ている人」の存在が本当の意味では消失してしまうのです。

実はこれは、(以前つじさんがやめた時のオフ会前後で、つじさんと私の言い合いが飛び火して伊丹さんや三木さんと私の間でも議論になりましたが)その時述べた疑問と全く同じです。確か三木さんが「攝津さんには(総括に向けて)がんばってほしい」と言っていて、それに対して「攝津さんだけを頼りにして自分がやらないのはおかしい」という意味のことを私は言ったと思います。私には、Q‐NAM問題を何気なく不用意に論じてしまうと、三木さんでさえ、完治困難な「責任回避病」にかかった一人の患者にみえてしまいます。Q-hiveのMLに感想を述べるだけでは何も始まらず、最悪の場合、それは「悪いのは柄谷さんや太田出版で自分は何もしなくていい」という前提に立った上での自己満足にしかなりません。これが何気ない感想の問題だとしても、Q-hiveの運営にも再三表面化する共通の精神的雰囲気を私は感じざるをえなかったのです。


以上です。今回もいやなことばかり書いてしまい、本当に申し訳ないと思います。いくつか補足すれば、私は「楽しいことをやりたい」という考えを否定しているのではありません。「それだけでいいのか」と言っているのです。それが石黒さんに書いた、「「二行」を付け加えてくれ」という言葉の意味です。

もう一つ、さすがの私も事態が慢性的になりすぎて、怒る気力を全く失ってしまいました。ただ私はやはり、これからQに新規で参加する人達をあざむいて入会させることをしたくないのです。私は、お前を訴えるとか何とか言われた程度で自分が「被害者」だと感じる考え方を好みませんが、非NAMのQ会員として情報が一番乏しい状態を経験したこと、そして情報の欠如が人間をどんなにいやな気持にさせるかを理解したNAM会員にほとんど出会えなかったの[こと]も事実です。彼ら自身が心細かったとしても、「ではNAMのMLを読めない非NAMのQ会員はもっとそうなのではないか」という他者感覚に彼らは(皆さんは)欠けていました。少なくとも、行動のレベルでそれを全く感じられませんでした。だから私は、非QのQ入会希望者に対して、自分自身が同じ失敗を繰り返したくないのです。大変申し訳ないですが、今後も「二行」を除去する無意識の空気や雰囲気には異議申し立てせざるを得ません。すみません。

最後に、松原さんは、メール826で、「申し訳なさついでなのですが、Q−NAM紛争事件に関して少し1人で考えたいことがあるので本格的業務復帰まで、しばらくお時間いただきますようどうぞよろしくお願い申し上げます」と書かれています。しかし、この件は考えて解決するようなものではなく、具体的な運営のあり方の中にその解決が表現される問題だと思います。ですから、今すぐ運営に参画されてはいかがでしょう。私に言われたくないと思いますが、どうかよろしくお願いします。