三ツ野陽介/革命は続いているか


「さてと、いったい何に乾杯しようか?」
 2003年5月10日。映画『LEFT ALONE』を見終わったばかりのぼくたちは、試写会のあったアテネ・フランセ近くの居酒屋の座敷でビールを持ったまま、しばし沈黙した。
「それじゃあ、」とニタニタしながらぼくは口を開く。「68年革命に乾杯!!」
 すると、その場に居合わせた、二十代を中心とした仲間たちは一様に笑った。そのシニカルな笑いは、さっきまで見ていた「68年」の革命性について考察するといういささか大仰な映画に対して向けられたものというよりも、そんな映画に三時間も付き合った挙げ句、「結構面白い映画だった」なんてすました顔で語り合っている自分達に向けられた自嘲だったのかもしれない。革命に乾杯ねえ…。しかし俺たちは、こんなところでいったい何をやっているんだ?!

 というわけで、この拙文で書きたいのは、「あまりに革命的」なものであったらしい「68年」についてではなく、とてもじゃないが革命的だとは思えない「今日」の状況についてなのだが、映画『LEFT ALONE』およびその周辺の話題について一文をものするようにというのが編集部からの(というより、鎌田哲哉さんからの)依頼なので、まずはそこから始めようと思う。

 井土紀州監督の『LEFT ALONE』は、60年代後半の学生運動を一活動家として生きた文芸評論家の秀実氏が、松田政男、柄谷行人、西部邁、鎌田哲哉、津村喬といった面々を相手に、「68年革命」をめぐって対話を繰り広げる様子を収録したドキュメンタリー映画である。このサイトを見ている人には不要な説明かもしれないが、雑誌「重力02」は井土氏の責任編集のもとに「一九六八年革命をめぐって」という特集を組み、また、氏が雑誌「早稲田文学」に連載していた『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』は単行本になったばかりである(以下、『史論』と略記)。

 この三つの連動した映画、雑誌、評論において、氏が一貫して批判しているのは、60年代の学生運動について世間一般に流布するイメージである。すなわち、「全共闘=ニューレフトは権力の悪に対して純粋な正義感から反抗を開始したが、体制の厚い壁の前に挫折を余儀なくされ、ついには「連合赤軍事件」(一九七二年)をシンボリックな頂点とする「内ゲバ」によって自壊していった」(『史論』p.7)という一般的なイメージ。ここでは便宜的にこれを「挫折史観」とでも名付けることにしよう。氏はこの「挫折史観」を批判しつつ、「68年」は連合赤軍事件ごときに矮小化されるものではない、マイノリティ運動をはじめとする70年代以降の展開は「68年」によって準備されたのだから「68年革命」は挫折したのではなく勝利したのだ、そしてそれは今も続いている、といった主張を繰り広げる。

 ところで、このような氏の主張を「教科書が教えない歴史」の左翼版と呼ぶのは意地悪過ぎるだろうか。「第二次大戦期の日本を不当に矮小化する自虐史観を批判することによって、若者の日本人としての誇りを回復させる」というのが右派の歴史修正主義者たちの運動だったとしたら、氏の狙いの一つは「学生運動期の新左翼を不当に矮小化する挫折史観を批判することによって、若者の左翼としての(あるいは「プロレタリア」としての、「マルチチュード」としての)誇り(?)を回復させる」というものだとは言えないだろうか。氏自身、「重力02」の共同討議で『LEFT ALONE』の企画に乗った動機を、氏らしい照れとともに以下のように説明している。

> まあ、エイ、ヤー、というつもりで「革命」と呼んでいるということでもありますが
> (まあ、「革命」というのはその程度のものですという意味でもあります)、そこに
> 映画を作りましょうというトンデモ話が舞い込み、若い人のお役に立てるかという老
> 人のご奉公のつもりで(笑)、「革命」の伝道に少しでも貢献すべく、無根拠かつ軽
> 薄に乗った次第です。

 実際、『LEFT ALONE』の試写会に訪れた客層の中心は、筆者も含めて、革マル派と中核派の区別すらイマイチという、二十代、三十代の人間だったはずだ。しかしここで疑問なのは、氏にとって「革命の伝道」が、なぜ「68年」の歴史認識という形を取らなければならなかったのかということだ。「学生運動の再建」が氏の持論であることは筆者も知っている。だが果たして『史論』のようなものが、継続中だという今日の「革命」に対して、何か実効性のあるアジテーションたりえるのだろうか。

 「68年」が「革命」の名に値するものだったのかどうか、といった問題についてはここでは問わない(というか、知らない)。「重力02」の特集で本当に問われるべきだったのは、そういった問題よりはむしろ、「68年」について考えることが2003年の「いまここ」にどのように関係しているのか、という問題だったのではないだろうか。そして「重力02」の同人のなかで、この問題についてもっともこだわっていたのは、詩人の松本圭二氏である。共同討議の中でも氏の「六八年革命論」に違和感を繰り返し表明している松本氏は、「重力02」掲載の「討議のためのレジュメ」のなかで、「の「六八年革命論」は現代詩の現在にとってどんな意味があるのか、ということを僕は考えていた」と書いている。

> 何かが生まれ得る可能性の中心を六八年ラディカリズムの持続によって見い出そうと
> する時、詩の言葉にとっては可能的であっても、詩人にとってはかなり危険な場所に
> 触れてしまうということだ。は現代詩にエールを送っていると読むべきかも知れ
> ないが、それは多くの詩人にとって耳を塞ぎたくなるような傍迷惑な声なのかも知れ
> ない。なぜなら同時にその声は「死ね」と言っているように聴こえるからだ。僕には
> 幽かにそう聞こえた。

 この松本氏の文章の「現代詩」や「詩人」の代わりに、「若者」なんていう言葉を入れて読んでみればよい。氏の「若い人のお役に立てるかという老人のご奉公」は、若者にエールを送っていると読むべきかも知れないが、それは多くの「若い人」にとって耳を塞ぎたくなるような傍迷惑な声なのかも知れない。なぜなら同時にその声は「死ね」と言っているように聴こえるからだ。僕には幽かにそう聞こえた。

 例えば、映画『LEFT ALONE』において、もっとも美しく哀しいシーンは、2000年に起きた早稲田の「サークル部室移転反対闘争」を撮影した冒頭のシーンである。アンダーグラウンドな趣きのある旧サークルスペースを廃止し、監視カメラや厳重な入館者チェックのある新学生会館へのサークルの移転を強制する大学当局に対して学生たちが抗議したこの事件は、現代の「学生運動っぽい」出来事として写真週刊誌に取り上げられるなど、ちょっとした注目を集めた(氏の「重力02」の編集後記によれば、この闘争は「近年の対抗運動史上の画期をなしている」)。早稲田の当局に対して、お祭り気分で抗議する学生たちと共に陣頭で怒号する氏がスクリーンに映し出される。夜の早稲田キャンパスに流れるモーニング娘。の「恋愛レボリューション21」に合わせて踊り狂う氏、そして学生たち。
 学生たちはたぶん、自分達の「闘争」が何の意味もないことをよく知っているし、自分達が本当に戦うべき敵が、大学当局なんかではないこともよくわかっている。よくわかっているということをちゃんと言い訳するために、わざわざ「恋愛レボリューション21」なんか踊ってみせたりするのだ(氏は「重力02」の共同討議の中でこれを「権力化するしかない暴力を「モー娘。」によって散らすわけです。「ナンセンス・ドジカル」とは、そういうことでしょう」と解説している)。確かにこれはモーニング娘。が歌うところの「超超超超イイ感じ♪」ではあるのかもしれないが、とても哀しい。抗議していた学生たちの中には、自分が結局は新学生会館に移り、管理の行き届いた綺麗な建物の中で結構快適に暮らすだろうということを、よくわかったうえでやっていた学生もいたに違いない。しかしこの学生には、ならば本当に戦うべき敵が何なのかということだ けは、よくわからないのだ。そして、氏も決してそれには答えようとしない。

 ところで『史論』の中で氏は、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリの共著『<帝国>』をしばしば援用している。例えば、『史論』の第三部は「生成変化する「マルチチュード」」と名付けられているが、「マルチチュード」とはハートとネグリが「プロレタリア」や「人民」に代わる概念として用いているキーワードである。そして氏の『史論』と同様、『<帝国>』もまた「マルチチュード」に対するエールたらんとする書物なのだが、その際ハートとネグリは、この「本当に戦うべき敵」について語ろうとする。

> 今日の政治哲学が最初に提起すべき問いは、抵抗や叛乱がありうるか否か、さらに
> いえば、なぜ抵抗や叛乱がありうるのかですらなく、いかにして叛乱すべき敵を定
> めるのか、というものである。じっさい敵を同定できないことには、抵抗への意志
> をそうした逆説的円環(執拗に闘った結果、みずからすすんで隷属してしまうとい
> う円環――引用者注)のなかに閉じ込めてしまうことに往々にしてつながるのだ。
> とはいえ、搾取がもはや特定の場所を持たない傾向にあること、そしてまた、あま
> りに深くて複雑な権力のシステムの中に私たちが浸っているために、特定の差異な
> いしは尺度を規定することがもはやできなくなっているということ、これらの条件
> を考慮するならば、敵の同定はとるにたらない仕事などではまったくないのである。
> 私たちは日々、搾取・疎外・指令といった敵のせいで苦しんでいるけれども、抑圧
> を産み出すものをどこに位置づけるべきなのかわからないのである。しかし、それ
> でもやはり私たちは抵抗し闘いつづけている。

 ここでは深く立ち入らないが、ハートとネグリはこの「あまりに深くて複雑な権力システム」、「抑圧を産み出すもの」をとりあえず<帝国>と名付け、その正体をなんとか解明しようと試みる。しかし、<帝国>とは一般に言われているのと違って、「アメリカ」のような解りやすいものではなく、「それはいたるところに存在すると同時に、どこにも存在しないのである。つまり<帝国>とはどこにもない場所なのであり、あるいはもっと正確にいえば非−場なのである」とさえ言われるのだから、この闘争はいずれせよとても込み入ったものになるに違いない。

 ここで、一人の新進作家を紹介することを許してもらいたい。滝本竜彦という名前のこの作家は、「角川学園小説大賞特別賞」という少々地味なデビューを飾った後に、『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』と『NHKにようこそ!』という奇妙なタイトルの小説を二冊出版して、若い読者を中心に結構な支持を得ている。

 おそらく批評家にとって、この作家の欠点を挙げるのは簡単なことだろう。ご都合主義のストーリー展開、現実の女性(そんなものがいればの話だが)よりは美少女ゲームのキャラクターに似ているヒロイン像、痛々しい自意識の露呈、二作目で早くもマンネリの徴候、などなど。それでもやはり、この作家が今日の絶望のありかたを見事に描いていることは間違いがないと思う。

 たとえどんなに不幸でも、戦うべき敵さえいてくれるなら、希望を持って生きることができるのに、そんな都合のいい敵はどこにもいない。滝本が二つの小説で執拗に描いているテーマはこれである。そんな登場人物たちはいつしか、自らの妄想によって、わかり易い敵を捏造するようになる。一作目でその敵は「諸悪の根源、悪の魔人。切っても突いても死なない不死身のチェーンソー男」として現れる。二作目では「世界を牛耳る悪の組織、NHK」として現れる。これではなにがなんだかわからないので、とりあえず相対的に優れている二作目『NHKにようこそ!』について詳述することにしよう。

 『NHKにようこそ!』の主人公は、22歳の大学中退無職ひきこもり青年である。この本の帯には「ひきこもり世代のトップランナー(自称)」という文字が踊っており(ちなみに筆者は滝本と同い年である)、「あとがき」で告白されているとおり滝本は小説の主人公と同じ「リアルひきこもり人間」であるらしい。
 さて、この主人公は、自分がひきこもってしまった理由を説明することができない。ひきこもり生活からどうやったら抜け出せるのか、どうして自分が外に出られないのかもわからない。ただただ不安で、意思が続かない。
 そして主人公はある日、この世に何か巨大な悪の組織が存在していて、その組織のせいで自分はひきこもりに追い込まれ、抜け出すことができずにいるのではないか、と妄想することによって自分を慰めるようになる。主人公はその組織の名前を「日本ひきこもり協会」、頭文字をとって「NHK」と名付けてみる。「俺がひきこもりになったのも、実はNHKのせいだ」。これはちょうど、ハートとネグリがどこにも場所を持たない権力システムを<帝国>と名付けたのに似ている(などと適当なことを書いていると『<帝国>』を真面目に読んでいる人に怒られそうだが、氏の書評によれば『<帝国>』は「冗談」とさえ読みうるそうだから、こんな冗談も許されるだろうか)。「大切なのは、己の敵がNHKであると知っていること。それを信じ込むこと。信じるフリだけでもしておくこと」。しかし、もちろん主人公は、そんな悪の組織がどこにも存在しないことをよく知っている。

> 悪い組織と戦いたい。悪者と戦いたい。もしも戦争などが勃発したならば、俺たちは
> 速攻で自衛隊などに入り、神風特攻をしていただろう。きっとそれは、意味のある生
> き様で、格好いい死に様である。もしもこの世に悪者がいてくれたならば、俺たちは
> 戦った。拳を振り上げて戦った。そうに違いない。
>  しかし悪者はどこにもいない。世の中はいろいろと複雑で、目に見えるような悪者
> など、存在しない。それが辛く、そして苦しい。

 だから、例えば小林よしのりの『戦争論』のような本が、過去の戦争をいくら美化して書いたって、それを支持する若者さえ決して励まされたわけではない。絶望しただけだ。なぜならば、当時信じられていた(ほんとか?)世界観(鬼畜なんとか or なんちゃら共栄圏)の単純さと、今日の世界の複雑さのギャップに絶望するだけだからだ。今日は2003年であって、1945年ではない。鬼畜な誰かもいなければ、素晴らしい共栄圏がどこかにあるわけでもない。
 同様に氏の「68年革命論」を読んだとしても、今日の「革命家」は決して励まされないだろう。今日は2003年であって、1968年ではないからだ。例えば、この小説には、ネットで調べた製造法をもとに登場人物の一人が爆弾を作るシーンがある。

> 「悪者です。悪者を、この革命爆弾でやっつけてやります」
> 「なるほど。……して、悪者とは?」
> 「……たとえば政治家とか?」
> 「お前、今の総理大臣の名前、知ってるか?」
> 「………」
>  山崎は押し黙り、作業を再開した。
>  まもなく、黒色火薬の製作と鉄パイプの密閉が完了した。アナログ時計を用いた発火
> 装置も完成した。あとはその発火装置を取り付けるだけで、いつでも爆発させられる。
> 「やった、完成だ!僕は闘士だ!革命家だ!」
>  山崎は、はしゃいでいた。
> 「吹っ飛びますよ!悪者は皆殺しです!」
>  はしゃいでいたが、醒めてもいた。
> 「……あーあー、楽しかった」と言った。
>  結局その爆弾は、悪者を吹き飛ばすことはなかった。そもそも俺たちは、悪者の居場
> 所を知らない。

 かつての「闘士」は、かつての「革命家」は、己の敵が何であるかを知っていた。少なくとも、「それを信じ込むこと。信じるフリだけでもしておくこと」ができた。しかし、今日はどうだろう。いま、単純さを恐れずに行動しようとすれば、「人間の盾」みたいに皆の笑いモノになっておしまいだ。ではいったい、何に対して抵抗すればいい?ナンセンス・ドジカル?ぼくには「死ね」と言っているように聞こえる。
 しかし、それでもやはりぼくたちは抵抗し闘いつづけている。