鎌田哲哉/西部忠への返信
元気ですか。多忙な中、原稿を本当にありがとう。「シエナ通信」は面
白かった。ウェブでも触れたが、本音を書いても自己中心的にはならない文章に固有の魅力を感じた。だが、読んでいて自分の異見を書く義務がある、とも思った。時間がないので簡潔にやる。
たとえば、日本には人工的な石=意志がない、と西部は書いていた。だが、これは横光利一の「旅愁」か何か以来の、極めて陳腐な感想ではないのか。石がないからそれを持ちこむ。逆に石がないからそれに見合った生活をする。僕にとっては、この二つこそ真先に退けるべき考えだ。確かに日本には石がない。だが、だからといって石を意志とも等置はできない。石のない所で「意志」を貫くこと、石があれば容易にできることをより困難な条件でやり通
すこと――我々の採るべき前提はあくまでこれだと思う。
「重力」がパラダイスないし文芸村だ、という批評についても書きたい。せせこましい甘えは我々の間に確かにある。最近で言えば、WEB上の大杉と浅田彰の応酬は読んでいて恥かしかった。だが、「重力」参加者間の信頼全てがなれあいではない。そこには「01」の試行錯誤で勝ちとったものが確かにあり、その部分については誰にも憚る必要を感じない。逆に、Qについて問いたい。西部が今回直面
したトラブルは、とうに通過すべきでありながら到来の遅すぎた、「分離」の一過程だとは言えないか。僕は、君がNAMにおけるQの義務化に一貫して反対したこと、だが君の反対を押し切ってそれが強行されたこと、その結果
、Qの会員数が急激に増える代りに、NAMのために狂奔した連中がQの自立性を無惨に損壊させたことをよく承知している。だが、最初の時点で君が戦わなかったこと、そしてそれが今回の混乱を大規模にしたのも事実だと思う。他力を借りたあぶく銭は、Q自らの血にも肉にも絶対にならない。いかに君に危惧や予感があっても、そこには同程度に、君自身の錯誤や読み違いもあったのだ。
僕は君を責めてはいない。「重力」であれQであれ、何が生じ、何が生じえなかったかを「記憶」しなければ、今後も我々は同じことを繰り返す、と言いたいのだ。共同討議で、僕はNAM会員の悲惨さを遠慮がちにしか語っていない(追記)。京都で暴れた連中は、仕事の対価を自分だけ円でせびった。取引公開が前提のQで、今なお名前を明かさず逃げ切ろうとする不正取引者がいる。情報公開の件で、歴史を偽造する「法律アドヴァイザー」のNAM副代表に僕自身がどんなに手を焼いたかは知っての通
りだ。彼らはみな「故郷」の「楊おばさん」そっくりだった。本当に、数限りない愚行がQでは生じた。――だが、今警戒すべきは、NAM解散後(その前から?)の彼らが、今度は大人しい「いい人」になってしまったことだ。暴れて、やめて、だがQとは別
の地域通貨をさらにがんばって創る奴がいたら(現時点では見てくれのおしゃべり以外ない)、そいつらにはまだ見どころも根性もある。彼らはその時、実行行為は間違いでも、批判自体に怨恨以上の何かがあったことを辛くも証明できる。この暴れ方に意味をもたせるとしたら、それしかない。だが実際にはそうはならなかった。組織の威を借り、柄谷行人に扇動され、やりたい放題やっていながら、後ろ盾を失い行き場をなくした途端、蟻んこのように小さくなった連中がほとんどだった。せいぜい、自分がいかに柄谷に抵抗したかを、聞かれもせずに力説する奴がいるだけだ。僕はこの種のモッブに一度として譲る気はない。だが正直いえば、都合の悪い時だけちゃっかり弱者に変貌できる、彼らの善良さとおめでたさが怖い。彼らが今回人殺しをしなかったこと自体、ただの偶然でしかない。
この前、対イラク戦争反対の、あるデモに参加した。そしてデモの参加者に、自分の過去への健忘の徴候があるのを明確に感じた。この反戦は、Qで暴れた元NAM会員にも同じ副作用を疑いなくもたらす。彼らは「忘れ」、自分が善人だ、という錯覚にすでに酔いかけている。要するに、二〇年前、君や君の友人に誘われて、反核運動にいやいや僕が参加した時と状況は変らない。ただ違うのは、自分がモッブの記憶力を全く当てにしなくなったことだ。そしてたとえ状況に変りはなくても、自分が今後もデモに行く、と決めていることだ。この決心が、「他人の歯や眼を傷つけながら、自分への寛容を主張する人間には絶対に近付かない」という自分の格律と矛盾しない状況を、僕は今後努力して少しでも作りたい。今回、西部が火中に栗を拾う行為に飛びこんだ動機も、根本的にはそこにあるのではないか。
紙数がつきた。とにかく、健康第一で日本に帰ってきてくれ。実は心配している。しばらくメールを休んで、奥さんとサッカーを見に行ったらどうか。「02」が売れたらこちらから遊びに行きたい程だが、たぶん無理だ。元気で。
(2003、2、19)
(追記)この辺の事情が分りにくいと思うので、共同討議1での私の発言1、2を参考に掲げる。柄谷行人がQや西部忠を叩くためにNAM会員を細かい指示つきで扇動したメール(返金要求をどんな形式でどこに投稿すれば最も効き目があるか、という種類のことを教唆している)も含め、全ての証拠が実在する。
1 たとえば、「レフト・アローン」でも、「技術」のことを考えている人が別
にいて、それは柄谷行人です。ただこの場合、「技術」はくじ引きや地域通貨等に限定されている。批評がだめだから技術を考える、という感じです。まあ、その姿勢を一応「批評」とは呼ぶんだけど、結局、言葉の問題は消えていく。でも、必要なのは、何より批評自体、言論自体を「技術」に変えることではないか。運動レベルで言うと、たとえば「対抗運動」と書けばそれで対抗していることにはならない。丸山真男がつとに強調したように、可視的な思想や世界観とは別
に、現実の諸関係において暴露される「思想」というものがある。運動体や組織に、誰もがそれ以前の環境での悪習を持ち込んでしまうのは不可避だから、そこで持久戦を戦いたければ、いかに時間をかけてでも「言葉」という技術でやりとりする以外ない。Qだって、貨幣であると同時にコミュニケーションの「技術」でしょう。何かそこに柄谷さんの致命的な盲点があって、西部忠への怨恨に満ちた文章を読んだり、NAMでの悲惨な自滅的言行を仄聞する限り、言語的な水準の問題を簡単に放棄したとしか思えない。でも、それはやはり自業自得なんですよ。そして、これは柄谷さんだけでなく、それにくっつく周囲の子供(文字通
り身内も含む)全員に言える。
この際だから、僕個人が発言に一切の責任を負う、という前提で、最近の状況を全部話していいですか。いま逃げ切らせずに徹底的に恥をかかせることが、彼らの魂が更正する上で不可欠だと思う。何より、新たにQに入会する人に対して、一度生じた出来事を絶対にごまかしたくない。――僕は、以前から非NAMのQ会員で、最近Qの監査委員になりました。QとNAMが、昔の新日文と共産党みたいに争って、Qの自立的な運営が妨げられている状態を打開したかったからです。ただ、やってみてNAM会員のコミュニケーション能力の拙劣さには本当に呆れた。何かQのシステムにささいな問題があるのを指摘したい時、ML上か何かで言葉で言わずに、いきなりハッカーまがいの実行行為に訴える馬鹿がNAMから何人も出た。しかも、何が悪いかわからない、欠陥を指摘してやったんだから感謝しろとか何とか、居直り強盗の理屈を平気で口にする。NAMの事務局長に至っては、彼らを表彰すべきだ、とまで言った。自分はいいことをしている、だから何でも赦される――そういう発想のおめでたさがうらやましいほどで、その意味では確かにだめ連がましです。勇気もなくて、柄谷さんが一度寄付した20万を返させたこと自体すごくせこいのに、彼がNAMでマニュアルまで作って陰湿な号令をかけたら、腰巾着の関井光男を先頭に、集団で金返せ、裁判だ、とか騒いで、特に柄谷さんの息子(自称地域通
貨の研究者)なんて、身辺整理をしろ、と言ってプログラマーを恫喝した。それで僕が怒って、訴えたければ勝手にやれ、もう弁護士と相談済みだ、任意団体同士だから裁判が個人と個人の争いになるのがわかっているか、と言い返したら、逆にびびって一斉に黙りこんだりね。全く日本の縮図そのもので、どう再教育すべきか、ちょっと手のつけようがない。
念のため言うと、こういう「日本人」どもから本当の意味で分離できれば、Qは絶対うまくいく。僕自身、「重力01」に続いて「02」も個人的にどんどん売る予定だし、NAMのQ会員にも信頼できる人がわずかだがいます。でも、社会で無能だからNAMに入った怨恨の塊もその数十倍はいて、パソコンはともかく、言葉や批評、何より自己批評の習練が全くない。何も悩まず息子の名前を「行人」にする人とか、西部さんの悪口は絶対言わないと人前で誓っては、舌の根も乾かぬ
うちに中傷をねちねち繰り返す、そんなペテロの再来みたいな人とはとても一緒にやれない。西部忠も本当に大変だと思うよ(笑)。組織で動く連中の怖さをなめた、彼の見通
しも根本的に甘いけどね。
ただ、NAM会員における言葉の欠如は、ハッカー行為も含めて非常に美的な、全共闘直伝のものだと思います。(以下略)
2 僕もそう思う。ただ、そこですぐキャラに行くんじゃなくて、「批評」とか「言葉」という技術の欠如を見たいんです。NAMで言えば、柄谷さんがNAMを辞めると言った。その時に、一斉に止めたり謝ったりするんじゃなくて、「わかりました、では辞めて下さい。我々はこれからも原理に従って行動します。お互いにがんばりましょう」と言える反応が自然になる状況を作らないといけない。今回解散する時だって同じです。彼らは大恥をかいた。惨めに負けた。しかも問題は自分自身にあった。でも解散声明を読むと大本営発表そのもので、平気で解散できるのが自分達の面 目だ、とか何とか、相変わらず元気に勝利し続けている。自分が原因で敗北したこと、負け犬であるのを回避する時に負け犬は本当に負け犬になること、――それらを認める能力が、柄谷さんであれ誰であれ彼らにかけらでもあるのか。今度は別 個の暴力を生まないか。それが本当に不安です。そういう精神勝利法を破壊するのが、「批評」という技術だと思います。