秀実/文芸雑誌の排出した「粗大ゴミ」は、いかなる意味で粗大ゴミなのか? ――これは「喩え」ではない


 以下の文章は、このweb重力で交わされている、大杉重男と浅田彰とのあいだの「投壜」問題に関するやりとりにも触発されて、「投壜」ならぬ 、或る「粗大ゴミ」について考えた私見である。私が、なぜ「重力」02に執筆その他でかかわったかという問題にも関係すると思うので、投稿した。また、近々公にされる「重力」02の共同討議における、私の発言のバックグラウンドをなすものとしても、参考にしていただければ幸いである。さらに本稿は、「重力」02のテーマでもある、「1968年の革命」問題にも、遠くかかわっている。

 「早稲田文学」三月号のヌーヴォー・ロマンをめぐる座談会のなかで、清水徹が、「数日前、ある文芸雑誌をぱらぱら読んでいましたら、ある批評家が一人称と二人称と三人称について、とんでもないことを書いていました。ほんとうに腹がたってね、いったいぼくはこれまでなにをしてきたんだろう、と思いました」と発言している。清水が槍玉 にあげているのは、昨年末の「文学界」誌上での「新人小説月評」の或る若手の評者のものであるらしく、ヌーヴォー・ロマンの翻訳紹介者としての(いや、そうではなくとも)清水の怒りはもっともだと思われる。だが、所詮はその程度の欄で、その程度の者によって言われたことに過ぎず、それほど目くじらを立てるには及ばぬ と、うっちゃっておくことも不可能ではあるまい(まあ、新人小説月評と評者を蔑視することではあるが)。
  清水が言うように、確かに、六〇年代におけるヌーヴォー・ロマン(だけではないが)の翻訳紹介は、その批評家のごとき杜撰な議論を許さぬ 「『回帰不能』の場所」を刻印したはずではあった。そのような意味において、清水は一九六〇年代半ばに新潮社から刊行された『フランス文学13人集』の意義を座談会で確認し、加藤典洋が清水に言ったという「高校生のときに『フランス文学13人集』は非常におもしろい、もっとも刺激的な本だった」という言葉を紹介しているのであろう。周知のように、この文学シリーズはカミュ『異邦人』の中村光夫新訳をはじめ、ブランショ、ベケット、クノーなどをへて、ヌーヴォー・ロマンやソレルスなどの小説・戯曲を翻訳したものであった。

 しかし問題は、清水らによって「『回帰不能』の場所」を通過したはずの加藤が、実は、何のてらいもなく、とんでもないところに「回帰」しているらしいことなのである。その証拠が、「群像」〇三年二月号に掲載されている、「『海辺のカフカ』と『換喩的な世界』」と題された一九〇枚にも及ぶらしい「長編評論」にほかならない。そこにおいて加藤は、ヌーヴォー・ロマン座談会での清水の発言に目配せするかのように、清水徹のカミュ論を援用してさえいる。この呼応ぶりは何なのか? 興味深い問題を抽出しうるかも知れぬ この暗合については、しかし、さしあたり問わない。それ以前に、加藤がそこでキー概念として用いているところの「換喩」なる概念が、清水が同人雑誌評評者の人称問題に関する杜撰さ(以上)の水準にあることを問題にしたいのだ。
  加藤は次のように言う。
  《「ライオン」というコトバが、この名を冠した練り歯磨き製品、「ライオン歯磨き」をさす場合、この「ライオン」はメトニミー(換喩)と呼ばれる。このとき、「ライオン」が意味する〔百獣の王〕と「ライオン歯磨き」が意味する〔歯磨き〕の間に意味内容〔SA〕の繋がりはない。》
  これが、加藤の長編評論の換喩についての説明の骨子なのだが、いやはや何とも、書き写 していると馬鹿馬鹿しくて笑いも出てこない代物であることは、少なくとも高校生(中学生?)程度の文法の知識があれば、誰でもそうで思うに相違ない。
 意味内容を〔SA〕(シニフィアン)と記しているところは、ご愛嬌とうっちゃっておこう。「ライオン」という言葉も、別 に、〔百獣の王〕を意味するだけではあるまいし、「ライオン歯磨き」も〔歯磨き〕という意味だけではないだろう。しかし、それも問うまい。 端的に言う、「ライオン歯磨き」の「ライオン」という言葉は換喩ではない。それは、「ライオン歯磨き」という固有名詞の一部として用いられている言葉である。それは、「加藤」という言葉が固有名詞であり、そのなかの「藤(ふじ)」という一般 には普通名詞として用いられる言葉が、隠喩でもなければ換喩でもないのと同じである。これが、この長編評論の粗大ゴミたるゆえんにほかならない。
  しかし、引用文で加藤は、たとえば子供がドラッグストアに行って「『ライオン』ください」と言った時、店員が「ライオン歯磨き」という固有の商品を出してくるごとき場面 を想定しているフシもあるので、同じことなのだが、より加藤に対して丁寧に、そうも考えてみてもよい。その場合も子供の発した言葉「ライオン」が換喩でなく、「ライオン歯磨き」という固有名詞の省略型、あるいは、「ライオン」という(固有名を名のっている)会社の作った「歯磨き」を直示(いかなる意味でも比喩ではない)していることは、自明である。
  もちろん、「加藤」という姓が創案された時、それが隠喩的あるいは換喩的命名であったということは、十分にありうる。たとえば、その家の庭には藤の木が一本あったとか、先祖の人間が藤の蔓のようなスタイルをしていたとか、である。しかし、そんな起源は「加藤」という名前が固有名化されて流通 していった時には、たちまち忘却される。私は、加藤典洋がなぜ「加藤」と呼ばれているかには、まったく関心がない(まあ、関心のあるひともいるかもしれないが)。そのことは、「ライオン歯磨き」においても同様であろう。私は「ライオン」という会社の社史を読む気などないし、読む必要もないからだ。
  そもそも、隠喩的言語使用においても換喩的言語使用においても、その言葉が意味するものに「繋がりはない」などということは、ありえない。それらは、類似か隣接かという「繋がり」の相違によって区別 されるものである。たとえば、加藤典洋も推奨しているらしい丸山圭三郎も訳者のひとりに加わっているデユクロ/トドロフ編の『言語理論小事典』がたまたま手元にあるので、そこから例を引けば、隠喩は「〈食い入る〉後悔が、彼の心に生じた」、換喩は「〈ジュネーヴ〉〔新教〕か〈ローマ〉〔旧教〕かに決めかねております」(ヴォルテール)が引かれている(〈 〉内が隠喩的または換喩的に使用された言葉、〔 〕内はその意味内容)。この記述法にしたがえば、加藤の例は「〈ライオン〉〔歯磨き〕」となるはずだが、加藤も言うように、〈ライオン〉と〔歯磨き〕のあいだには「意味内容の繋がりはない」かに見える(〈ジュネーヴ〉と〔新教〕とのあいだに部分的=隣接的な「繋がり」があるのは、多少の知識があればわかるだろう)。だとすれば、それは加藤の考えとは違って、「ライオン」が換喩ではなく(もちろん、隠喩でもなく)、対象そのものを指しているからなのである。

  この長編評論によると、加藤は「テクスト論破り」を標榜しているらしいが、加藤の換喩概念は、まさに「テクスト(教科書)破り」ともいうべきものである。もちろん、教科書的概念を批判するのは、概してけっこうなことである場合が多いものだ。しかし、かかるインチキな換喩概念を用いるというのは子供だましにさえなるまい。加藤は、その『敗戦後論』などによって、一部からは「歴史修正主義者」と呼ばれているらしいが、もしテクスト(教科書)破りを目指しているにしても、大著『国民の歴史』を著した西尾幹二ほどの努力さえしていないことは、以上の指摘からも明らかである。
  加藤の「長編評論」について、これ以上あげつらう必要はあるまい。キー概念がコレなのだから、その他ところのトンデモぶりは言うまでもない。ただ一言付け足せば、この「長編評論」=粗大ゴミは、バルト批判、デリダ批判という世界的文脈で書かれてもいるわけだが、その意味で、万々が一、これが外国語に翻訳され、読まれでもしたら、日本の知的水準を疑わしめるに足るに十分な、「国辱」ものであることも、以上の簡単な説明から明らかだろう。まあ、そんな心配もないだろうから、加藤は安んじてこんないいかげんなことを書いているのだろうが、この粗大ゴミを目して「わが国の批評理論の歴史において、画期をなす」(添田馨、「現代詩手帖」三月号)などと寝ぼけたことを言っているアホな詩人(古い比喩を使えば「自立小僧」)もいるので、あえて言っておく。

 さてしかし、さしあたりの問題は、加藤典洋というひとがトンデモない評論を書いたということにはない。より深刻なのは、中学生か高校生でもわかる、かかる端的な間違いを核心に据えた長編評論を、堂々と(まさに堂々と!)掲載してしまう「文芸雑誌」というシステムの問題である。換喩概念など、編集者に採用される程度の知識がある者なら誰もが知っているのではないかと思われるし、もし知らなければ(いくらなんでも、「〈ライオン〉〔歯磨き〕」だか「〈キューピー〉〔マヨネーズ〕」だかが換喩だと言われたら、誰でもエッ?とは思うだろうから)、ちょっと調べればすむことではないか。にもかかわらず、加藤の長編評論に最初に接した編集者(たち)は、そうは思わなかったらしいのだ。そして、それは「投壜」ならぬ 「粗大ゴミ」として遺棄(?)されてしまったのである。
  「重力」という雑誌が、かかるシステムに対する居ごこちの悪さを糧にしている限り、私は、それに対する一定の信頼を抱いている。

※清水徹が指摘している対象が、「同人雑誌評」ではなく、「新人小説月評」のものであることを、読者の指摘によって知った。ここに、お詫びして、訂正しする。