「重力01」作品合評会(1)


■前提

鎌田
 今日は、「週刊読書人」で「重力01」の問題点を的確に指摘してくれた批評家の中島一夫さん、それから(スガ秀実さんとともに)新たに「02」に参加する沖公祐さんと大澤信亮さんをお招きしていますが、最初に僕が合評会に参加する理由を述べます。
 「重力01」の編集会議では、出版流通システムの現状や「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼが議論の中心になり、全体討議もそれを主題にやったけど、作品内在的な議論は事前にはほとんどなかった。実際、僕らだけでなく、読み手もある観点からしか「重力」を読まない。この前の「重力」再創設のシンポジウムでも、ゲストの3人(浅田彰、大塚英志、福田和也)、特に浅田さんと大塚さんは、共同討議以外全く読んでいなかった。大学生や若い読者の多くもそうです。それで、僕はこういう人達はどうしようもない、なぜいつも「ホーム」でしか戦えないのか、と思ったんですね。僕達は確かに、経済的自立がどうとか、サーキュレーションがどうとかしつこく言った。でも、それは自分に不得手な「アウェー」の問題なんです。少なくとも僕自身は、「アウェー」で相手をねじ伏せられる人だけが本当の戦力になる、と言ったつもりです。僕は俗物が嫌いですが、世間にはそれと同じくらい反俗的な俗物というのがいる、だから、そうならないために最も世俗的な事柄から始めるべきだ。――でも、そういうことを言うとただの俗物が必ず増長し始める。本を一冊も読まないネットおたくが、ホームページをもっと更新しろ、とか偉そうにね。
 ただ、それだけなら僕は合評をやるつもりはなかった。批評で叩けばすむことだから。今回もう一つ痛感したのは、「アウェー」がどうとか言っている自分自身に、別の意味で「アウェー」がなかったことです。具体的には、松本圭二や井土紀州の「作品」の理解が僕とは全く違ったことです。僕は、実際上は編集者の指摘はほとんど受け入れているけど、「共同制作」が体でわかってはいない。本当はきれい事としか思えない、自分にとって文章は一人で完成させるものだから。たとえば、今回印刷所に行くまでろくに原稿を読ませなかった人が数人いたけど、これは時間的な事情というより、僕の問題意識の不在が根本にある。勝手にやれ、僕もそうする、自分の力で緊張しろ、と思っていた。だから、井土さんが「重力」には編集者がいない、作品が切断され変容する契機が存在しない、と何度も討議やMLで指摘してくれたのに、松本圭二の作品を読むまで、その意味がよくつかめなかった。「アストロノート」は、本来「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」として書かれた原詩を、僕を含む他の参加者とのML上での討論をとりこむことで、解体(松本さんの言葉では瓦礫化)させた作品ですね。でも、そこには何か「重力」批判を実践しようとして無理している所、自分で自分をやけっぱちに変容させる、ある種の不自然さもあったと思う。――正直僕は、彼の批判よりはその不自然さに打撃を受けた。松本さんにとって、「重力」への参加に何か意味があったのか。「アウェー」で勝負したつもりで、僕は結局どこにいたのか。それが、大澤さんから合評の提案があった時、手遅れでもいいからこの問題を取り上げよう、それを「02」につなげよう、と思った理由です。大澤さんが、作品について相互の緊張感が全くない、と指摘したのも同じことですか。

大澤 「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼ自体は僕も認めますが、それは精神的自立が何であるのかを具体的に問う限りでしか意味がないと思うんです。しかし精神的自立とは何を指すのか、という議論はなかった気がする。僕が考える精神的自立への第一歩は、互いの間でいうべきことをいう姿勢を獲得することです。といっても、たんに相手を裁断するのではなく、相手と関わるなかで自分すらも変えていく状況を耐えていくということです。僕は「重力」に参加するにあたって、まず「01」に欠けていることを実行すべきだと思ったので、合評の必要を強調し、皆さんに個々の作品の感想を送りました。

鎌田 ではまず、「重力01」が自作にいかなる変容をもたらしたか、からやりましょう。「アストロノート」と比べると、僕は江藤さんや山城さんについては以前の文章をそのまま発表し、小林秀雄論もほぼできていたので、「重力」による内的変容は全くない。ただ、大杉さんの「アンチ漱石」にある、固有名に対する無名性からの抵抗・批判という発想は、小林の「白痴」論の4節以後を読み直す大きなきっかけになりました。小林のイヴォルギンやイポリート、レーベジェフの輝きを考えたり、秋山駿を思い出したりした。もちろん大杉さんへの異論もあり、それは決定的だと思うけど、中島さんの言うように、大杉さんの仕事は「重力」全体に浸透していたと思います。

井土 「重力」への関わり方で言えば、鎌田さんは強力な人だから考え方が感染したり転移したりするんだけど、一緒に作業することで、僕は鎌田さんとの距離について非常に考えるようになりましたね(笑)。

鎌田 あまりつき合いたくない、ということでしょ(笑)。

井土 つき合い方が変わらざるを得なかった、ということです。

鎌田 僕は井土さんが他人に転移する人間だと思ったことは一度もない。だから、何かを一緒にやりたかった。それで言うと、大澤さんと沖さんも直観的には井土さんタイプだと思います。いくら相手に圧迫は感じても異論は公然と言えるし、だからといって自己絶対化に陥ることもない。

大杉 僕は過去のことをすぐに忘れてしまうので、いつの間に僕が「重力」に参加したのかも良く覚えていないのですが、たぶん最初は「重力」に対する期待値はそれほど高くなかった。そもそも「重力」という雑誌が本当にできるのか、疑問でした。共同製作などという高度なレベルを最初から要求するのは破綻の元ではないかとも思っていた。自分のことで精一杯で、人のことを考える余裕がなかった。ただ最初の頃鎌田さんから聞いた「重力」のコンセプトは、「現代の『明六雑誌』」だという話でしたよね。

鎌田 大杉さんにはそう言ったけど、明六社には根性がない奴が多いから、本当は福沢諭吉以外どうでもいい。西部忠には、長年の目標である戦闘的な理論誌を出そうとか、松本圭二に会いに行った時は、君が伊東静雄になるなら僕は保田與重郎程度でいい、とか言いました。「重力」は「日本浪曼派」とは無関係ですが、今後人を誘う時はもっとまじめにやります。(笑)

大杉 鎌田さんの意図はどうあれ、僕にとってその「現代の『明六雑誌』」という言葉は印象的だった。森有礼論をやる気になったのも、「現代の『明六雑誌』」とは何かということを突っ込んで考えたかったからです。実際に書いてみた結果は違ったものになったかもしれないけれど、「重力」での出会いが何かしらの変容を僕にもたらしたとは言えるかもしれない。少なくとも「重力」がなければ、森有礼について書かなかっただろうし、これを書いたことは僕にとってプラスになりました。

中島 僕は去年の12月頃、「重力」という雑誌を出すから「週刊読書人」の時評で取り上げてくれと可能さんに言われたんです。冗談レベルでの会話で、「三行くらいでいいから」と。しかし時評をやっていく上で文芸誌との比較で論じなければならないと思ったので、「重力」が出たからといってそれだけに集中したわけではなく、他の文芸誌と一緒に読みました。その上で、その月のなかで圧倒的に強度が感じられた「重力」を取り上げるべきだと判断したんですね。ただ、創作と批評というふうに大別したときに、鎌田さんと大杉さんの批評にはものすごく強度があるのに対して、文芸誌を相手取っている割に創作レベルで文芸誌に拮抗し得てはいなかったように思います。先ほど鎌田さんも言っていたけど、批評家が二人もいるわけだから、事前批評をしあって強度が深まった作品が出てくれば、もっと凄いものになったのではないか。総体としては時評でだいたい書いたことですが、念頭に置いているのは文芸誌ではなくむしろ「批評空間」である、と僕は思いました。
 308頁に、鎌田さんが書いたテーゼ1「概念化への固有名の抵抗」、テーゼ2「固有名への無名性の抵抗」がありますね。これを僕なりに判断すると、「概念化への固有名の抵抗」を「季刊思潮」や初期の「批評空間」がやったとしたならば、それに対して「重力」がやろうとしているのは「固有名への無名性の抵抗」なのではないか。もちろんこの二つのテーゼは分裂的に共存させなければならないわけですが、「批評空間」や「季刊思潮」と「重力」とを比較したときに、このテーゼ1とテーゼ2の拮抗関係に集約される部分が感じられました。さらに作品全体を通して読んでみても、事前に打ち合わせしたのではないかと思えるくらいに、名前や無名への拘りが作品の随所に出てきます。やっぱりこれは「重力」の作品ベースでの特徴だと考えていいのではないか。この前のシンポジウムで浅田さんが「有名になってはいけないのか」と言っていたけど、問題はそういった有名に対する無名ではない。いわばフーコー的な無名性とでも言うべきものです。
 フーコーに「汚辱にまみれた人々の生」というエッセイがあるのですが、そこでフーコーが言っているのは、張り巡らされた偏在的な権力と衝突することで、全く無名だった人たちが浮かび上がってしまうということです。つまり、無名な人たちが汚名を着せられることで固有名化する。貨幣的になった有名に対する無名ではなく、張り巡らされた偏在する権力にフレームアップされてしまう、資本に排除された無名性。これは井土さんの「ブルーギル」が増殖していく感触に近いものだと思います。資本制の進行とともに、地べたに這いつくばるような「無名性」が充満していく無気味な感覚。それにともなって、権力の形態も変容せざるを得ない。いわば68年以降の「管理社会」の感触をともなった「無名性」ですね。ドゥルーズ=ガタリ的に言えば「戦争機械」、スガさん的に言えば「ならずもの=マイノリティ」と言い換えてもいい。
 「批評空間」においては、柄谷さんや浅田さんの固有名が、もともと単独性としての固有名だったものが貨幣化してしまっているのではないか。もはや超越的に機能してしまっている。大杉さんは特にそうだけど、「重力」はその貨幣としての固有名に対抗しようとしている気がする。それは僕自身がこれから何かを書いていくときに無視できないテーマでもあります。

大杉 中島さんは「読書人」の文芸時評の中で、「アンチ漱石」の主張は、アンチ・エディプス的というよりはむしろエディプス的なのではないかと批判的に指摘されていますよね。それを拡張するなら、たとえば「重力」の「批評空間」に対する位相も、やはりアンチ・エディプス的というよりエディプス的であると中島さんは捉えているわけですか。そしてその場合エディプス的であるのはよくないことなのか。

中島 「重力」の「批評空間」に対する位相に関しては、一号しか出ていない現時点ではまだ明確にはわからない。ただ、エディプス的になると、父を殺して自分が父になるわけだから、永遠に反復してしまうわけです。少なくとも現在はそれに意識的でないといけないのではないか。

大杉 つまり僕たちが父になる危険があるというわけですか(笑)。

中島 というより、アンチ・エディプスと言うわりには、戦略としてエディプス的態度をとっている印象をもったんですね。

大杉 エディプス的と言われても僕は構いません。柄谷に「子犬」と言われても(*)そのこと自体は事実だから腹は立たない。かえってアンチ・エディプスみたいな観念にとらわれてしまうと、スガさんのように永遠に奴隷の批評を続けることで終わってしまう危険があると思う。実際いまだに「週刊読書人」で蓮實重彦にインタビューなんかしているように(『「知」的放蕩論序説』に収録)、自分では父になろうとしないスガさんにはヨイショするべき父が生理的かつ理論的に必要になるんです。そしてそこにたまったルサンチマンのはけ口が小森陽一のような明らかにダメだと分かる攻撃対象に向けられる。実際は蓮實と小森の間の結託こそが問題なのに。実際あのインタヴューで蓮實は批評の水準が落ちたと言っているけれど、その昔小森のしょうもない『吉野葛』論をほめあげて自分は当分『吉野葛』論を書けなくなったなんて脳天気なことを言っていた人が(『魂の唯物論的擁護』所収)、「小説のディスクリプション」が大事だとか言ったって全く信用できない。もちろんそのでたらめが「放蕩」であり、無責任が責任なんだろうけど、蓮實さんの責任は文学や批評に対する責任ではなくて、せいぜい東京大学に対する責任であるに過ぎない。

鎌田 無名性について、「技術」の観点から考える人がいますね。たとえば、中野重治の「素樸ということ」に、「車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している」と書かれている。決して誰が作ったかを問い得ない「技術」の創作性、それが無名性のモデルだと僕は思いますが、それは同時に、「技術」の剰余としての「責任」と切り離せないものだと思います。単に有名人に対する無名性というと、悪事を働きながら名誉毀損だ、プライバシーの保護だとか言ってちゃっかり責任回避する、2ちゃんねる的な匿名性に落ちこんでゆくわけでしょう。

大杉 そこはちょっと違うような気がするけどな。これは「アンチ漱石」で取り上げたけど、むしろ「素樸ということ」での中野は逆説的なロマン主義であって、結局中野自身は固有名の側につく。もちろん2ちゃんねる的匿名性はもっとだめであって、実際2ちゃんねる的匿名性と浅田彰的な固有名とは、実は親和的な関係にあると思うんです。2ちゃんねる的な匿名性は、匿名であるが故に固有名にしか関心がない。無名性と匿名性を全く違います。無名性が「汚辱にまみれた生」であるとすれば、2ちゃんねる的な匿名性は、「汚辱にまみれさせる生」です。そこに書き込みをする人々は匿名であるが故に自分自身は決して汚辱にまみれることはない。ベクトルが正反対である。実際2ちゃんねるの浅田のスレッドを見れば分かるように、彼らは決して固有名を真に批判するのではなく、むしろスターに群がるストーカーのように固有名に依存し、その権威を崇拝している。インターネットの掲示板ではレスを返されることが最大の喜びになる(逆に無視されるのが一番苦痛になる)から、誰もが知っていること、有名な名前を話題にするしかない。これは2ちゃんねるに限らず、ネットの批評的サイト全般に言えることです。それは絶対に無名性を生かす方向には行かない。

鎌田 わかるけど、まず無名性としての「技術」について考えた上で、それに解消できない感触に遡行すべきではないか。その過程がなくて無名性とだけ言っていると、何かが抜ける、たとえばマイノリティの権利要求が既得権への居直りに転化する悪循環を避けられない、と思うし、逆に、中島さんが言われた「汚辱にまみれた」無名性こそそういう悪循環を断つ、空威張りとは無縁な「技術」を現場で生みだす存在に思えます。まあ、大杉さんの無名性を2ちゃんねる的な匿名性として理解している僕がおかしいんでしょうけど。

井土 僕からすれば、鎌田さんの言う無名性のモデルというのは、現在最も商品価値が高いものです。車輪の発明者なんて調べれば分かる時代になっているし、僕のかかわっている映像メディアでは、そんな無名性のモデルをどんどん発掘しては、物語として消費していますよ。例えば、NHKの「プロジェクトX」なんて典型的な例だと思うし、俺だってそういう人物をドラマにして商品化している。

鎌田 いや、商品化はしないし、できない。車輪は発明されたけど、発明した人はもうかったとは思えない。西部さんの論文で言えば、オーウェンが導入した十時間労働や労働証券がそうでしょう。

大杉 ただ、そこで確認したいのは、浅田的な投瓶通信であってはいけないということです。誰かが海の中に手紙を流せば、それが価値のあるものであれば誰かが必ず拾ってくれるというおなじみの発言があるけど、現実にシンポジウムの時ですら浅田は僕の論文を読んでいなかった。にもかかわらず、群像新人賞は鎌田さんと大杉が出たのだから素晴らしい賞である、もっと群像や文芸誌を大切にしなさいというような、ありがたいといえばありがたい忠告だけど、とにかく二枚舌的なレトリックを使っていた。以前「批評空間」の共同討議ではここ十年の群像新人賞で記憶に残っているのは山城と鎌田だけであとは名前も覚えていないと言っていたくせに。浅田さんのそういう軽いところは嫌いじゃないけど、僕たちは真似をしてはいけない。だから投瓶通信ではなくてきちんと宛先に届けないといけない。しかしそれは浅田や柄谷的な固有名としてではなく、無名的なものを宛先に届けるということです。

鎌田 大澤さんが言っているのは、無名な人間の固有名のことでしょう。オーウェンがやったことはそうだし、それでいいんじゃないですか。

大澤 西部さんが論文で言っているのは、私的所有を廃したときに生じる無名性だと思うんです。つまりLETSが目指すのは私的所有の揚棄であると。僕が中島さんの文章を読んで感じた疑問もそれに関係するのですが、中島さんは西部さんの議論を敷衍して「重力」における無名性のモチーフを取り出した。もちろん、それがたんなる有名/無名の対立ではなく、フーコー的な意味での無名性だとおっしゃるのはわかります。でもそれがLETSにおいて語られるとき、やはり私的所有の水準の議論だと思うんです。僕は無名性をそのように考えません。

鎌田 資本主義的な私有ではないけど、個体的所有は残る。

大澤 そうです。僕の考える無名性は個体的所有の水準に生じるんです。それは権力や資本や有名/無名とは関係ない。あえていえば個体と個体との関係において生じるのだと思う。だから個体的所有の水準で生じる無名性について論じるべきなのに、私的所有の水準を無くしたときに匿名化する、というときの匿名の無名性とで議論がこんがらがってくると生産的な話にはならないと思います。

鎌田 そうですね。今この場でみんなが同じことを言おうとしているんだけど、どこかで持ちこたえきれずに混同が生じてしまう。難しいですね。


■市川真人「水道橋革命計画」

井土 では市川さんの「水道橋革命計画」から合評していきましょう。まず、大澤さんが書いてきた感想があります。

大杉 とても市川さんにやさしい親切な感想だと思うな。

大澤 そうですね。感想を書いたあとに考えたこともあるのですが、それは一通り話が終わった後でいいです。

鎌田 僕は彼に感謝の気持ち以外ないんで、そのためにも手抜きせずに言います。僕は言語感覚が乱れているとは思わなかった。むしろ、きれいすぎる、言語感覚が乱れてなさすぎるのではないか。犬やアルファベットのパラパラ漫画や上段のキーボードも含めて、形式的な工夫の全てがある。大体、市川さんは小説の添削を仕事にしているんだから、文章も悪達者です。そこに問題があるわけでしょう。読ませる工夫は無数でも、根本的に中身がない。正直言って中途半端はやめるべきだと思った。それと、誰も触れてないけど、主人公が女性だということは読んでいて分かりましたか。

井土 最後に何となく分かる。

鎌田 それをどう理解したらいいのか。作品の根本に関わることなのかな。

井土 でも、市川さんなりに企みがあったんじゃないですか。本当に最後くらいで、あ、女だったんだ、と思うところがありました。「ほら、ここが私たちのいる場所よ」(158頁)みたいな言葉使いとか。

鎌田 松本圭二はずっと男だと思っていて、なぜ急に女言葉に変わるのか、と言っていた。でも、それで作品の理解が激変はしない。他に批評しようがないから気になるだけなのか。続きがないとだめなのかな。

井土 ダメだと思う。無理してでもいいからケツまで書いてもらわないと仕方ないな、というところがある。

 大澤さんは感想でも序だけの作品については評価できないと言っていますね。ただ、一回完結型という「重力」の性格を考えると、たとえ序章と銘打っていても、これはこれで完成したものとして読まざるを得ないのではないか。ページ上部の目次を見ると、9章まであるように書いてありますが、では残りの8章はどこに書くつもりだったのか。例えば「重力」が09まで続くとして、そこに書こうとしていたのか。しかし鎌田さんの「『重力』の前提」にあるように、「重力」のシステムが一回ごとに生成と解体を繰り返すものであるとするならば、「重力」に9回連続で書き続けることができるかどうかも分からない。

鎌田 そうですね。僕は続きが読みたいけど、そういう態度が市川さんを甘やかしているのかな。

大澤 じゃあ価値判断を提示しろというのであれば、僕は今すぐ提示するけど、ダメだと思う。はっきり言ってどうしようもないんだけど、それを現時点で言っても批評として意味がないと思ったから、内容については書きませんでした。

中島 同じです。コメントできない。

鎌田 楽屋話だけど、書いている時の精神態度が影響している面はある。自分には時間がない、だから他の作品はいいけど自分の作品は良くないと言われても構わない、そういうつもりで「重力」に参加した。そう市川さんは言っていた。言わせたのは僕達だけど、そういう自己犠牲は自分はちゃんとやらなくてもいい、という無責任に繋がるし、その時は彼の作品だけでなく「重力」全体が腐っていく。やはり、彼の作品が輝くことで同時に「重力」が輝く、それがとるべき前提でしょう。やるか、やめるか、分かれ道が来ていますね。企画力や編集能力が抜群に優秀でも、書くこととは関係ない。もし本気なら、早稲田文学もHPの日記も早く辞めて小説家に徹底した方がいい。ところで、タンクにソースを満たして回る、というプロットは、新鮮だったでしょう。

井土 俺はなんとなく、ボンベを背負って歩いているイメージ──その時点では男の姿を想像していたけど──それは何か可笑しかった。

鎌田 本当にそういう職業ってあるのかな。

井土 ないでしょう(笑)。そこに市川さんのフィクションの可能性の萌芽みたいなものを感じたけど。

鎌田 これは面白い。展開次第だけど。

大澤 ソースというのは、何かの隠喩なんですか。血とか。何代も続いているというし。それを汚すことと革命が関係あるのかな。それにしてもね(笑)。

中島 端的に、文芸誌だったらボツでしょう。それをボツにできないところが、さっき鎌田さんが言っていた「重力」を腐らせる原因になっていくのではないか。僕はだから、失礼かもしれないけど、市川さんの作品について云々する気になれない。

大澤 中島さんのおっしゃることはすごくわかりますし、実際に僕もずっとそう思っていましたが、「重力」を精神的自立者の集団ではなく、自立しようとする人間の集団だとするならば、切り捨てるよりは、批判的な態度で関わることを維持したいんです。

鎌田 だから、具体的な分析をみんなに言ってほしい。

大杉 じゃあ具体的に言うけど、言語感覚がダメなんだよね。耳が悪いような気がする。

鎌田 そうは思わない。文章はきれいで、僕は好きだけど。

大杉 きれい/汚いというのは視覚的な問題で聴覚的問題は別です。読んでいてリズムがまったく頭に入ってこない。視覚描写といわゆる渡辺直己流の描写というのを取り違えているのではないか。それを適当に会話で水増ししているという感じかな。はっきり言って視覚描写しかないでしょう。他の感覚がまったく使われていない。色しかないんだよ。黒とか赤とかさ。

大澤 先ほどの、主人公が女性かどうかという問題に絡めて言うと、たぶんみんなが男性だと思ってしまったのは、例えば、おばあさんを「老婆」と表現したり、女の子を「娘」と表現したりするからだと思う。「娘」はともかく、女性が女性を見る際に、おそらく「老婆」とは言わないのではないか。そういう細かい部分で、一般的に男性が女性を見る際の認識がそのまま色々な部分に出てしまっている。すごい言葉だと思いますよ、「老婆」って。

鎌田 意識的に読者を間違わせようとしたんじゃなくて、無意識が出た、と大澤さんは考える。

大澤 意図もあるのかもしれないけど、僕が言いたいのは意図とはべつのところに仄見える認識的な甘さです。それは女性認識に限らず、色々な部分に出ていると思いますけどね。

大杉 あと市川さんに関して言うと、フランス語ができないのにヌーヴォー・ロマンに憧れるのは、やっぱりおかしいと思うよ。もちろんフランス語なんてできなくていいけど。以前市川さんに直接批判したら、自分の小説はヌーヴォー・ロマンだからヌーヴォー・ロマンを読んでいない人には理解できないんだみたいことを言われたことがあった。

大澤 えっ!? これ、ヌーヴォー・ロマンなんですか。あ、ヌーヴォー・ロマンといえば、新聞が出てきて、それを媒介に時制が狂ったり話者がずれていったり、また戻ってくるような箇所(140-148頁)がありましたね。そこは方向的にロブ=グリエの『迷路のなかで』のようなものを意識しているのかな、とは思いましたけど。でもやっぱりそのレベルでしかなくて、認識自体が作品に変化を強いるというよりは、ある技法があってそれを使ってみたという、視覚性への配慮と同様の水準でしか捉えてない気がしました。

 鎌田さんはこの作品には小説の形式があると言ったけど、やはりないのではないか、と思う。

鎌田 いや、僕は「形式的」と言ったんですが。

 この作品の問題は鎌田さんの言うように形式的な工夫しかないことではなく、形式がないことではないか。これと対照的に感じたのは松本さんの詩だけれど、これには形式があると言ってよいと思う。「ミスター・フリーダム」というエッセイを読んでみても、詩形式という問題にすごくこだわっている。それと比べてみると市川さんの作品に形式があるとは思えないんです。

鎌田 確かに僕の言葉遣いはまちがっています。「形式」はもっと強いものだと思う。でも、市川さんの問題は「内容」にあると思いますけどね。悲惨な話を書け、とか言うんじゃなくて、思想を涵養しろ、ということです。

 そのように「形式」と「内容」を切断したうえで、「内容」が「形式」に優先するように考えるのは問題だと思うけど。

井土 形式の話で言うと、シナリオというのは、行動しか書けなくて描写なんてほとんどないんですよ。映画というのはアクションですから、行動だけを書いていくという、言語表現としての縛りがあるわけです。ところが、小説というのは五感を使ってもっと色々と膨らむわけですよね。だから、さっき視覚的な要素しかなくて、臭いなど他の感覚がないというのは、俺にとってはなるほどという感じですね。

鎌田 でも、臭いや聴覚が悪いのはお互い様で、それは視覚で勝負し、それを純化する条件と見るべきでしょう。問題は視覚自体がいいかどうかでしょう。たとえば、この部分はどうですか。「錠を外して蓋を開くと……【朗読する】」(132頁)これは、ソースの落下速度や、どろりとした広がりやタンクへの蓄積が鮮やかにみえると言えるんじゃない、言えない?(笑)困ったな。ソースの濃度が足りないのかな。でもそれだといい所が全くなくなる。

大杉 そうなんだよ。視覚描写自体だって言葉でできているんだから、聴覚が良くなければ書けないんだよ。読んでいるときに頭の中で音が聞こえるような……やっぱりリズムで読むわけですからね。

鎌田 でも、僕はやはり続きが読みたい。市川さんには「03」や「04」への準備を求めます。今からじゃないと間に合わない。

(つづく)